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雑感日記

旧い明石の想い出 

2011年09月20日 外部ブログ記事
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★お彼岸のお墓参りのついでに、子どもの頃の想い出を辿って、旧い明石のまちを訪ねてきました。
その写真の内、20枚をFacebookのアルバムに入れました。
このブログのカテゴリーを何にしようか、迷いましたが、『自分史』として、子どもの頃の明石を想い出してみます。
 
昭和8年(1933)明石の上の丸、今の本籍で私は生まれています。
中学校1年生までは、当時の朝鮮京城、今のソウルにいたのですが、小学4年生までは毎年夏と冬明石に帰省していましたから、旧い明石をよく覚えています。
そのころの本籍は明石市細工町でした。
今、有名になっている『魚の棚』(うおんたな)のすぐ横でした。
明石は、当時の川崎航空機の飛行機工場があったお陰で、空襲で上の丸あたりも焼けましたし、魚の棚あたりは、戦後の大火事で焼けています。
そんなことで、昔のままには残っていないのです。
 
★明石藩松平家の菩提寺長寿院は明石の天文科学館のすぐ下、人丸神社の下にあります。
入り口から門までの道は立派なのですが、
城下町ですから、ここに来るまでの道は、細くて車もすれ違えないような、細い道です。

祖父、祖母、伯父、伯母などの本家の墓と、高校3年の時に亡くなった父の墓が並んでいます。
このほかに先祖の墓が20ほどあちこちにあったのですが、阪神大震災の時にみんな崩れてしまって、どうなったのか解りません。

そんなこともあって、今はその後建てられた新しいお墓が半分を占めるようになりました。

昨日は、こんな道具を持っての墓参りでした。
お盆にお参りした時、いっぱい草が石の割れ目から生えていたのですが、道具がなくてとれませんでした。昨日は三木金物の隙間専門の草抜き道具と根まで枯れると称する液体を持って約2時間掛りましたが頑張りました。

まだ隙間には根が残っているのですが、専門の液体で大丈夫でしょうか?
まあ、何年か後には私もここで眠ることになります。でも日本のお墓の制度もどうなるのでしょうか?
明石は、私にとっては育った町ですが、息子には殆ど何の関係もありません。墓の場所を知っているぐらいです。
 
★墓参の後、明石の旧いまちを訪ねてみました。
 
これは中崎公会堂です。
名勝、須磨明石と言われた中崎海岸はこの道の続きです。
昔はそこから先が海岸で海水浴場でした。その名残の道です。



今の海岸通りのすぐ裏手にこんな道や、松林があることなど、明石の方でもあまりご存じないと思います。
 
★その先にある、いまは明石市立勤労福祉会館になっているところは、
戦時中は伯父がオーナーだった『錦江ホテルの』あったところです。外人客が来たり結婚式など行われる当時としてはかっこいいホテルでした。
このホテルは戦時中に、川崎航空機に訪れる軍の人たちの宿舎になってしまいました。 
当時の川崎航空機の総務部長さんが後、川重の3社合併をしたときの社長、砂野仁さんで、伯父との間に売買契約がなされています。そんなことがなかったら、私は川崎航空機に入社していませんし、二輪の世界とも関係しなかったと思います。
そう言う意味では、私の人生を左右したホテルだったかも知れません。
子どもの頃の夏休みは、特にこのホテルから毎日のように海岸に泳ぎに行ったものです。すぐ横が海でした。

このホテルの直ぐ裏には、お稲荷さんのあるお宅があります。このお稲荷さんは子どもの頃からありました。
そこにはホテルの支配人をしていた叔父夫婦の家でしたが、叔父はその後勤めた川崎航空機の空襲で、叔母は明石の空襲時上の丸で、二人とも空襲で亡くなってしまいました。
戦後京都の宇治から明石に来られて、後明石の商工会議所の会頭をされた故辻勝一さんのお宅になっています。
まだ辻さんが今の関西建設の前の工作所のような時代、私は戦後引き揚げてきて伯父が毎日のように当時の疎開先だった伊川谷から来ていて一緒に見ていました。 酒好きだった伯父が飲み屋で出会ったとか・・・何かそんなご縁で明石に来られたようです。
憲兵大尉だったという当時の元気な辻さんをよく覚えています。12月に引引揚げてきて4月に神戸一中に入学するまでの4ヶ月ぐらいのことですが・・神戸一中に入学したのは、当時明石におられた砂野さんのご長男が神戸一中に通っておられて、ぜひ一中に行くように勧めて頂いたのは砂野さんでした。
砂野さんも、辻さんも、そのころの私にとってはどちらも『おっちゃん』で、可愛がって頂いたのですが、伯父も大学の時に亡くなりましたので、私の人生にいろいろ影響のあったお二人です。
辻勝一さんは、伯父のあと、長寿院の檀家総代を務められて、長寿院にお墓があります。 昨日お参りしてきました。
 
★そのあと、訪ねてみたのが、今は明石で一番有名になった『魚の棚』(うおんたな)界隈です。
子どもの頃の本籍は明石市細工町でした。 小学校の2年生までぐらいだったと思いますので、そんなに詳しく覚えていませんが、
家のあった道筋などはよく覚えています。今はちょっとした町になっていますが、当時は「コの字」型の中庭や泉水があった料亭のような家だったと思います。お隣が朝日新聞の『クロイシ』さんだったことなど妙に覚えているのです。
今も明石の商店街本町のすぐ横です。

車の中からですが、明石の分大の娘さんは高校の同級生です。


これが『魚の棚』 その上はその横の通りです。魚の棚は流石に賑やかです。
 
魚の棚のすぐ横にこんなお店がありましたので、そこのおばさんにいろいろ伺いました。
『もう細工町と言うのは無くなったのですか?』
『ここも魚の棚も細工町ですよ』と聞いてほっとしました。
『朝日新聞のクロイシさんはどうされました?』
『新聞の方は止められて、喫茶店をおやりです。

そのお店がこれでした。今は影も形も残っていませんが、このお店の手前だったのは間違いありません。戦後の区画整理で道になってしまったのではと思ったりします。

何となく覚えている、魚の棚の弁天さんは、こんな形で残っていました。
このすぐ横には、高校大学と一緒だった森沢君の家があって、『アイスキャンデー』をよく買いに行きました。
高校の野球部の同期だった山本寿男君親友でした。大学を7年も掛って卒業するなど、やんちゃでしたが、一昨年急に亡くなりました。
住友系の運輸会社の社長をしていたのですが、葬儀は社葬でした。
なかなか、社葬はやって貰えないと思います。後を継がれた美人の社長さんが泣きながらの弔辞も『最後までヤンチ』らしいなどと思って、そのことをブログに書いたら、
丁寧なメールを頂いたりしました。
 彼の実家のお店も細工町にあるのですが、もう今はお店は」閉めていました。
 
 
★そんな想い出いっぱいの明石ですが、だんだんとその想い出も薄れていきます。
何となくいい1日でした。
草抜きをさぼっていた結果ですが、親父や伯父の墓の前に何時間もいたのは、もう何十年ぶりです。
独身の一人のころは、ぶらっと長寿院を訪ねて、墓の前に長くいたこともよくあったのですが・・・
ほんとに久しぶりでした。
 
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彼の実家のお店も細工町にあるのですが、もう今はお店は」閉めていました。
 

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