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「関東大震災朝鮮人虐殺の記録・東京地区別1000の証言」から世田谷区を抜粋 

2021年09月06日 外部ブログ記事
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世田谷区を抜粋する前に、著名な千田是也氏の芸名の由来が「渋谷区」に掲載されています。
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?千田是也〔演出家、俳優。当時19歳。早稲田大学聴講生〕 そのころ私は千駄ヶ谷に住んでいた。朝鮮人襲撃のうわさが広まったのは震災の翌日だった。朝鮮人が日ごろの恨みをはらしに来るとか、社会主義者、無政府主義者が井戸に毒を投げるとか、罹災者に毒まんじゆうを配っているとか、さまざまな流言が飛びかっていた。若い者は自警団に出ろというので、私も登山杖を持って、向かいの大学生といっしょに警備に当たることになった。家の近くを巡らしていたが、夜になってもだれも来ない。待っているのももどかしくなり、偵察のため千駄ヶ谷駅の線路の上の土手を登って行った。? すると内苑と外苑をつないだ道路(当時は原っぱだったが)の方から、提灯が並んでこっちにやって来るのが見えた。あっ、不逞朝鮮人≠セと思い、その方向へ走っていった。不意に私は、腰のあたりを一発殴られてしまった。驚いてふりむくと、雲をつくような大男がいて「イタアチョウセンジンダア」と叫んでいる。それは、千駄ヶ谷駅前に住んでいる、白系ロシア人の羅紗売りだった。? そのうち、例の提灯にも取りまかれ、「畜生、白状しろ」とこづきまわされる。私はしきりに、日本人であることを訴え、早稲田の学生証を見せたが信じてくれない。興奮した彼らは、薪割りや木剣を振りかざし「あいうえおを言え」「教育勅語を言え」と矢継ぎ早に要求してくる。この二つはどうにか切り抜けたが「歴代天皇の名前を言え」と言われたときはさすがに困った。こちらは中学を出たばかりだから半分くらいしか覚えていない。? ? もうダメだと覚悟したとき、「なあんだ、伊藤(本名)さんのお坊っちやまじやないですか」という声がした。それは日曜学校でいっしょだったころの知り合いだった。この一声で私は救われた。? ? それにしても、私は殺られずに済んだが、ちょっと怪しいというだけで、日本人も含めた罪のない人々がいったい何人殺されたのだろう。? ? 後になってそれは、政府や軍部が流したデマだと知って、がく然とした。震災の混乱を利用して、階級的対立を民族的対立にすり替えることで、大衆の不満をそらそうとしたのだ。これはナチスがとった手段と全く同じではないか。異常時の群集心理で、あるいは私も加害者になっていたかもしれない。その自戒をこめて、センダコレヤつまり千駄ヶ谷のコレヤン(Korean)という芸名をつけたのである。(談)? ? (「大震災がっけた芸名」毎日新聞社編『決定版昭和史・第4卷――昭和前史・関東大震災』毎日新聞社、1984年)
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?相原栄吉〔当時世田ヶ谷町長〕? 〔翌2日〕自宅は早朝より災害調べ、炊出し等に忙し。午後1時頃より避難者続々来る。聞けば鮮人襲来するなりと、予報に依り老幼婦女は一定の箇所に避難すべしと云う。いずれに行くかと問うに、行くとして目的なしと。次の報告に依るに、横浜を焼き鶴見に来り、爆弾を以て町に放火せりと。或はこれと対抗すと、故に戦場に異ならずと報ず。次に不逞鮮人、大挙して多摩川を渡らんとす。六郷は橋を断ちこれを防ぐと。次は鮮人、丸子にて目的を果さず、溝の口に来る。衝突し、死者20人程ありと。いずれの死者なるや不明。? 午後3時頃、警鐘乱打、警報あり。鮮人団、多摩川を渡り、用賀方面に向う由。又一説には、奥澤方面に現れたりと。午后4時半頃、砲兵隊にて空砲を発射す。これは、鮮人を威迫するなりと。これにて大に信ぜざるを得ざるに至る。依て警戒す。砲兵、輜重兵、憲兵等、交々偵察すれども、要領を得ず。? 日の暮る頃までに避難者陸続として来る。目的地なき人は、拙宅裏竹薮中に避難させ、四方を消防隊、青年団にて護衛す。握飯を庭前に用意し、各自勝手に食す。? 夜に入り、船橋土手下に鮮人2名現れたりと。喜多見橋付近にも出没せりと。六郎次山に怪し者隠れたりと。代田橋にも怪人来れりと。和泉新田火薬庫、大警戒せりと。その内に若林にては、2名鮮人山に入りたりと大さわぎ。一同気を取れおりしに、宇佐神社太鼓を打ち大さわぎ。何事ならんと慄々たり。聞けば、2名怪人豪徳寺山に逃入せんと。最も事実らしく、けだし詳細は不明。如何に鮮人地理にくわしくも、人目に触れざるは不思議なり。? かくの如く警戒中、夜半に至る。青年団捜索の結果、2名の僧を連れて来る。この者は、最近豪徳寺の徒弟となりしもの、一人は8月25日、一人は9月1日午前11時、寺へ来りしもの、裏の山に避難し、落伍して畑に出て陸稲の中に隱れ、時々頭を出し外を見たるとき、青年団員に見られ引卒されたるなり。依て避難所警戒を命ず。町内各警戒所の連絡、異状報告、軍隊の連絡、憲兵等交々来る。互に相戒め、その夜は不眠にて警戒す。 翌3日より戒厳令を布かれ、秩序を保持することとなる。しかれども流言区々にして、何等信ずる能わず。加うるに、玉川砂利場鮮人工夫は皆一ヵ所にトラクターにて運搬、或は護送す。三軒茶屋にて殺傷事件あり(勝光院に葬る)。? (世田谷区編「世田谷近?現代史」世田谷区、1976年)
荒木進? 一応地震も収まってから間もなく、町内に自警団が作られ、私の家の横(小学校〔深沢分教場〕の桜の並木のあたり)にも詰所ができた。夜、遊びに行くと消防団の人や近所の男の人が詰めており、サッマ芋を焼いて食べたりしていた。私もご相伴に与った。? 自警団ができたのは、あれほどの非常大混乱の際だから、治安上の必要もあったであろうが、かの朝鮮人暴動の風説に備えた面もあったのではないか。当時、多摩川筋には砂利取り人夫として、朝鮮から相当数の人が来往していた、と子供の私も聞いていた。大した数ではなかった筈。彼等がこ?の期に平素日本人に苛められた仇討ちに暴動を起すという噂が拡がった。? 現にその頃、私の家の前は二子方面から大勢の老幼集団が、泣き声まじりに駒沢方面に避難する行列が続いた。たまたま庭で来客と対談中の父がこの行列を見て「何を愚かな、そんなことがある筈がないではないか」と話した。父の椅子の下に坐って聞いていた私は、当時の空気に相当おびえていたので「お父さんは大胆だな」と、子供らしい見当違いの感心をしたもので、はっきり憶えている。逃げるならまだしも、当時東京近在の一部の日本人が朝鮮人に対して取った行動は、いかに大災害時のこととはいえ、明らかに大きな罪であり恥である。(荒木進『昔思い起すまま――桜新町深沢あたり』私家版、1988年)
内田良平〔政治活動家〕? 3日の夜自警団が世田谷に於て憲兵及び巡査が鮮人2名を捕え取調中、その行動如何にも奇怪なるにより自警団員は奮激してこれを毒殺したり。? 〔略〕2日の午後10時30分頃、調布方面より「代々幡自動車部」と箱囲に書きたる1台の自動車来りたるが〔略〕烏山水車小屋第一非常線を通行するや「止まれ」の号令を発したるも彼等は肯かずして突破し去りたるが、第二の非常線前の橋の破壊し居るを知らずこれを突破せんとし遂に車輪陥没して動かずなる〔略〕たちまち自警団員の認むる所となり、団員200名許りにて自動車の周囲を取り巻き取調べたるに箱中13名の鮮人潜伏し居たるを3人(内一人日本人)逸走したるを除く外捕縛し〔略〕また逸走したる鮮人は〔略〕いずれも途中にうろつき居る所を翌日自警団に捕えられたり。? (内田良平『震災善後の経綸に就て』1923年・姜徳相・琴乗洞編『現代史資料6・関東大震災と朝鮮人」みすず書房、1963年)
? 内村祐之〔精神科医。当時松沢病院勤務〕? 〔日時不明〕例の朝鮮人襲撃のうわさが松沢病院付近にまで流れ、平時なら到底信じられないような「松沢病院襲撃」のデマまでが、真剣に心配されたのである。暗闇の中に、近所の警防団が怪しい人を追う喚声が何度となく聞こえてくるといった状況であった。? 病院では、男女の患者群を、それぞれ別に、一方は松林の中に、他方を杉林の中に入れて、林の周囲に綱を張りめぐらし、従業員が寝ずの番をするという体制をとった。当時、壮年だった磯田看護長が、腰に日本刀をさし、緊張した様子で院内を巡回していた姿を思い出す。? 〔略〕精神病理学的に見て、この関東大震災の与えた大きな教訓は、驚くべき速さで行き渡った「流言蜚語」であったろう。武蔵野は元来、竹やぶの多い所であるが、私が徒歩で病院と自宅〔柏木〕との間を往復していると、所々に関門ができていて、竹やりを持った警防団員が、一々通行人を調べるのである。そこで、できるだけ正確な発音で応答して、通してもらうのだが、その時の気持ちは、こっけいな中にも何か真剣なものがあって、われわれ自身、流れているうわさを完全に否定することができなかった。毒物を投げ入れた井戸には特別なマークが付いているから注意せよと言われれば、やはり、自分ももよく調べるといった心?境であったのである。〔略〕多くの精神病者を収容する精神病院に対して、攻撃が加えられるなどということは、平時の頭脳では考えられないことだが、そのうわさが流れると、やはり真剣にその可能性を考えるほどの状態に、われわれ自身がおちいっていたのである。(内村祐之『わが歩みし精神医学の道』みすず書房、1988年)
江口渙〔作家〕 東京郊外の二子玉川近くの中洲でも、やはり300〜400人の朝鮮人が、騎兵第一三連隊の一隊に包囲せん滅されている。そのときは夜襲だった。朝鮮人の中にはピストルや日本刀で抵抗したものもあったが、優勢をほこる騎兵部隊は敵前渡河を強行して、一撃のもとにたたきつぶした。このときのことを書いたもので、越中谷利一の小説『一兵卒の震災手記』がある。(関東大震災・亀戸事件四十周年犠牲者追悼実行委員会編『関東大震災と亀戸事件』刀江書院、1963年)
加藤普佐次郎(松沢病院員)? 〔2日〕夕方に東南に爆発音あり、さらに、朝鮮人が爆弾をもつて襲撃中との報あり、敵人襲来を報ずる警鐘しきり。電車路をやつてくる曲者を10数名で打ちのめしたところ、病院の給仕。敵を軍隊の手ですでに包囲したとの報知が村からきた。患者は残つた建物に入れてはみたが、大小の地震がくるので室内にとどまれず、建物の前に出ていた。そして鮮人襲来の報があつて、そのまま2日目の夜にはいつてしまつた。? (加藤普佐次郎「大震と松沢病院の人々j『心疾者の救護j第40号、1923年→岡田靖雄「関東大震災と精神科医療」『精神医学』1997年11月号、医学書院)?????小池嘉平? 〔二子玉川の鎌田町で〕2日め位から誰が言ったかわからないですが「溝の口方面で鮮人が暴動をおこして大挙して東京へ襲撃してくる」「神奈川県の住民はほとんど殺されている」といううわさが流れてきたんです。そしてその時、溝の口警察の方面で半鐘を乱打するです。「それ大変だ」ってわけですよ。それがさらにすすんで、すでに「玉川の堤防のむこうに暴動をおこした朝鮮人が散兵している。堤防のむこうの住人は殺されちゃってる。まず老人と女、子供をまとめてお寺なんかに一力所にまとめちゃえ」と触れがあり、青年団の屈強なものをはじめ残りのものは非常招集です。? 「手ぶらできちゃいかん、むこうが刃物をもってるんだから、こっちも凶器をもたなくちゃいかん」「日本刀のあるものは全部日本刀をもってこい。槍のあるものは槍を出せ」というんで、倉の中からひっぱり出してくるですが、もう鏡びてるわけですよ。靖びてちゃ仕方ないからみんな研いでね。「さあいつでもこい」というわけです。私は18歳ですから土地を守れ≠ニいうことで青年団に入らせられました。? その頃、二子玉川のすぐ上に渋谷水道〔渋谷町水道〕の水源地があるんですが、それに薬品を朝鮮人たちが投げ込む、同時に各家庭の井戸に薬品を放り込む。もたもたしてたらやられちゃうから井戸に蓋をしろといっていました。? そのときは渋谷水道はまだ完成してなかったんです。朝鮮人は労務者、今でいう土方ですが、渋谷水道は朝鮮人がっくっていたわけです。それで工事現場にいた朝鮮人を一力所にまとめちゃったわけです。こういうわけだからあんた方は外へ出ないでもらいたい。食糧の補給はいっさいやるからといっているうちに戒厳令が出て〔略〕。? それであの地方は、各所に朝鮮の部落があったんですが、朝鮮人同士で連絡をとられると困るというので連絡をとられないようにしようと検問所を設け切断をはかった。わたしも日本刀を腰へぶちこみ、兵児帯しめました。一週間位して戒厳令が布かれて兵隊が渋谷水道まもっているんです。朝鮮人同士の連絡はさせないようにしていたんですが外部から朝鮮人の誰かが連絡にきたらしいんです。それで軍隊では「三声Iといって「誰れだ、誰れだ、誰れだ」って3回いって応答がない場合は、発砲してもかまわないことになっているんですが、10時頃「ドォン」と軍隊の銃の実弾の音がきこえ、「ヒューウ」と風をきったのです。「それはじまった」てんで村中の人が大騒ぎした。軍隊の方は「だれだだれだ」と声をかけるがわからない。そのうち「桑畑の中に逃げ込んだ」ていうんで、すぐさま全部のものが桑畑を包囲し、夜があけると同時にしらみつぶしにやったんですけれどだれもいなかった。いたらもうそらあ殺すことだってやりかねなかったですよ。だいたい銃声を聞いた時はすごかった。あの音を聞いた時、中にいた朝鮮人は非常に騒いだそうですよ。軍隊があとでいうには、お前たち騒いじあいかん、お前たちを殺るんじあない、といったらやっと落ちついたらしいですね。? 渋谷水道の中の鮮人は50名位だと思います。? (「朝鮮人が暴動を起こして攻めてくる」日朝協会豊島支部『民族の棘関東大震災と朝鮮人虐殺の記録』日朝協会豊島支部編、1973年)??斉藤長次郎(世田谷三軒茶屋の近衛砲兵連隊の兵営で被災)? 〔1日、皇居警備から帰ってくると〕そのうち、朝鮮人が暴動を起こしたという流言蜚語が伝わり始めた。「今、暴徒が井戸に毒を投げ込みながら、この連隊目ざして進撃しつつある。その先鋒は、すでに三軒茶屋に突入した」などという情報が届く。東京の空は、すでに大火災の黒煙でおおわれて、まさに地獄の様相だから、そんな流言が真実感を帯びて聞こえる。? 我が連隊では、野砲を引き出し、営門のところに1門、そのほか3門を配置して、これに空砲を装?し、いっせいに発射したから、いや、その轟音は百雷が一時に落ちたよう。? 飛び上がって驚いたのは、付近の住民たちだ。何しろ、皇居のあの午砲でさえ、遠く郊外まで、ドーンと聞こえて、雑司ヶ谷で草刈りをしていたおじさんが、「さて、飯にすべえか」と腰を上げるという、それほど静かで空気も澄んでいた時代のことだ。4門の野砲の一斉射撃は、市民たちを腹の底から揺すりあげ、恐慌状態にしてしまった。「戦争が始まった。兵隊屋敷に逃げ込めば丘録さんが守ってくれる」「そうだ、兵隊屋敷がいい。みんな、逃げ込め」? 兵隊屋敷というのは、兵営の俗称。ワッ?とばかりになだれこんだ地方人民間人で営内は超満員。今になって考えれば、ずいぶん馬鹿げたことのようだが、そのときは、誰もが目を血走らせていた。? (斉藤長次郎『がむしゃら人生――体験の仏教』仏乃世界社、1973年)??高群逸枝〔女性史家〕? 2日(夜)夕方、警告が回ってきた。横浜を焼け出された数万の朝鮮人が暴徒化し、こちらへも約200名のものが襲来しつつあると(もちろんデマ)。(略)村の若い衆や亭主たちは朝鮮人のことで神経を極度に尖らせている。これはちょうどわが軍閥の盲動に似ている。もどかしい、いまわしいことどもだ。三軒茶屋では3人の朝鮮人が斬られたというはなし。私はもうつくづく日本人がいやになる。? 〔略〕3日〕もうそこの辻、ここの角で、不逞朝鮮人、不逞日本人が発見され、突き殺されているという。〔略〕自動車隊の畑で朝鮮人がかたまって、火を燃やしているという情報が伝わると、ここの男衆金ちゃんも、他の同士といっしょに竹槍をひっさげて立ち向かって行った。おお無知なる者よ。(「火の国の女の日記」高群逸枝『高群逸枝全集第10卷、理論社、1965年)??徳富蘆花〔作家〕 9月1日の地震に、千歳村は幸に大した損害はありませんでした。(略)鮮人騒ぎは如何でした? 私共の村でもやはり騒ぎました。けたたましく警鐘が鳴り、「来たぞゥ」と荘丁の呼ぶ声も胸を轟かします。隣字の烏山では到頭労働に行く途中の鮮人を3名殺してしまいました。済まぬ事羞かしい事です。(1923年12月)? (徳富蘆花『みみずのたはこと』下岩波書店、1950年)??中島健蔵(フランス文学〕? 〔2日、駒沢で〕まだ「不逞鮮人」さわぎは、家の近所でははじまっていなかった。しかし、夕方になると、悪夢が追いかけて来たように半鐘が鳴り、「爆弾を持った不逞鮮人が隊を組んで、多摩川の二子の方面から街道づたいに襲撃して来る」という報知が、大声で伝えられた。〔略〕やがて世田谷の方から、1台の軍用トラックがゆっくりと動いてきた。本物の軍隊の出動である。そのトラックをかこむようにして、着剣した兵士が、重々しく走ってくる。これでもう疑う余地がなくなってしまった。? 〔略。自警団員に朝鮮軍にいたことのある東京憲兵隊の憲兵下士官がいて〕いたるところで群衆が朝鮮人を捕らえていじめている。いじめるどころか、なぐり殺そうとする。自分は朝鮮にいてよく知っているが、みなが「不逞鮮人」ではない。あんまりかわいそうだから割りこんで朝鮮語で事情を聞こうとすると、血迷った群衆は、「鮮人だ」「軍人に化けている」と自分にまで襲いかかってきた。殺気を感じて、「東京憲兵隊の制服を知らんか」とどなりつけ、人々がひるむすきを見て、命からがら逃げ出したという。? 〔略。駒沢で〕3日のひるまには、三軒茶屋で、歯医者だったと聞いたが、みなの見ている前で、その男が一人の朝鮮人をピストルで射殺した、といううわさもとんでいた。? (「いまわしい序曲――関東大震災」中島健蔵『昭和時代』岩波書店、1957年)
仲西他七〔実業家〕? 〔2日、駒沢で〕続いて忌わしい鮮人騒ぎが起りました。午後5時半頃、抜刀せる鮮人200〜300名、玉川沿岸にて同地住民と戦闘中との状報に始まり、更に大橋にも100名内外の鮮人と住民と戦争が起つたと伝えられ、或は爆弾を投じて帝都を焼き尽すとか、或は井戸に毒薬を投ずるとか言ぅ如き、妖言百出の有様でありました。? 〔略〕しかし午後11時過ぎ頃には、玉川にも大橋にも集団的鮮人のなきことを確かめられ、その後は次第に恐怖的動揺も薄らぎ、むしろ内地人が鮮人と間違えられて引かるるやら、たちの悪い邦人が民衆の襲撃を受くるなどの滑稽が所々に演ぜらるることになりました。? (高橋太七編『大正癸亥大震災の思ひ出』私家版、1925年)??山本八重〔山本七平の母〕? 〔1日、山本七平の生家?世田谷区三軒茶屋で〕? そのとき、表の道路を髪を振り乱し、子どもを抱え、裾をからげた裸足の若い女が、大変だあ、殺される」と叫びながら、家の前にあった野砲第一連隊の正門へと走りこむのが見えた。なにごとか、と近所の人たちはみな道路へ出た。と、だれ言うとなく、玉川の河原にあった朝鮮人の集落から朝鮮人が大挙して押し寄せてきたとの噂が流れ、それは間もなく、彼等が集団で家々に押し入って手当たり次第に略奪し、所かまわず放火し、井戸に毒を投げ込み、鎌で女、子どもを切り殺しているという流言蜚語に変わった。? 八重ははじめ半信半疑だったが、電話が通じないことは電話局が壊滅したということであり、それなら警察署も潰れているだろう。もうだれも自分たちを保護してはくれないと思い、七平を背におぶい、姉2人の手をひいて、玄関ロに「みな無事です。兵営に避難しています」と張り紙をして野砲兵連隊の兵営に逃れた。母子が入ったのは連隊の厩舎だった。? (稲垣武『怒りを抑えし者――評伝・山本七平』PHP研究所、1997年)
世田谷警察署 9月2日午後4時30分頃、三軒茶屋巡査派出所に急訴するものあり日く「不逞鮮人約200〜300名神奈川県溝のロ方面を焼き払いて既に玉川村二子の渡を越えたり」と、松本署長はこれを聞くと共に秋本・五十嵐両警部補をして巡査十数名を率いて自動車を駆りて同方面に赴かしめしが、その途上の光景たる異様の壮士が兇器棍棒を携帯して三々五々玉川方面に向いて走るあり、又警鐘を乱打する等殺気天地に充満し、既にして玉川原に到れば住民の混乱甚しといえども、遂に鮮人の隻影を見ず、これを高津分署に質すもまた要領を得ず、署長即ち部下に命じて各方面の内偵に従事せしめ、ようやくその流言蜚語に過ぎざるを知りたりしが、而も一般民衆は容易にこれを信ぜず、婦女子の如きは難を兵営に避くるに至れり。? 而して自警団の武装せる警戒はかくの如くにして起り、鮮人を本署に拉致するもの2日の午後8時に於て既に120名に及べり。翌3日警視庁の命令に基きて戎・兇器の携帯を禁止し、かつ鮮人の保護に従いしが、4日に至りて鮮人三軒茶屋に放火せりとの報告に接し、直にこれを調査すれば犯人は鮮人にあらずして家僕が主家の物置に放火せるなり。? 疑心暗鬼を生じ、衆庶その堵に安んぜざりし事それかくの如し、これに於て本署は鮮人の保護、流言の防止、自警団の取締に関して爾来最力を注ぎ、鮮人に対しては目黒競馬場を収容所としてここに保護すると共に、注意人物は軍隊に托して習志野に移し、引取人あるものはこれを放還せるのみならず当時多数鮮人の居住せる奥澤・等々力・P田・碑文谷・上野等には巡査を派遣して警戒の任に当らしめ、尋て又警視庁の命令に基きその就職をもせり。? 始め目黒競馬場を鮮人の収容所と為すや、町民のこれに反対して極力その移転を迫りしが、署員の懇篤なる説諭に依りて漸次其誤解を一掃せり。〔略〕而して流言は叙上の外「横浜の大火は其放火に原因せり、不逞鮮人数100名東京に襲来せり、鮮人等井水に毒薬を投ずるものあり」と言えるが如き又は東京に於ける震火災を誇張せる説話等種々行われたりし。
?(『大正大震災誌』警視庁、1925年)
『国民新聞』(1923年10月21日)? 9月2日午後5時40分府下世田谷太子堂付近にて鮮人朴某(28)を銃殺した犯人太子堂25写真業小林隆三(27)に令状執行収監す。???『東京日日新聞府下版』(1923年10月21日)? 「烏山の鮮人被害者」? 長らく記事差止中であった震災当時北多摩郡烏山方面に於ける鮮人被害者の氏名は左の如くである。被害者――? 比較的軽傷者:金丁石(25)・魯ロ珍(20)・李敬植(36)・権宜徳(24)・許衍寛(36)・朴在春(32)・朴道先(32)・朴敬鎮(32)・李永壽(23)・金希伯(34)・高學伊(24)・李洪中(25)・宋學伯(23)・鳳虚到(36)・具鐵元(27)・金珠榮(26)・文己出(36)・閔丙?(31)・金仁壽(24)・権七奉(23)・鄭三俊(25)? 赤十字病院へ送られし者:金奉和(35)・金威光(28)・成鯉口(37)? 絶命した者:洪基台(35)
『東京日日新聞』(1923年10月21日)? 「烏山の惨行」? 9月2日午後8時頃北多摩郡千歳村字烏山地先甲州街道を新宿方面に向って疾走する1台の貨物自動車があった。折柄同村へ世田谷方面から暴徒来襲すと伝えたので同村青年団在郷軍人団消防隊は手に手に竹槍、棍棒、鳶口、刀などをかつぎ出して村の要所々々を厳重に警戒した。? この自動車も忽ち警戒団の取調べを受けたが車内には米俵、土工用具等と共に内地人1名に伴われた鮮人17名がひそんでいた。これは北多摩郡府中町字下河原土工親分二階堂友次郎方に止宿して労働に従事していた鮮人で、この日京王電気会社から二階堂方へ「土工を派遣されたい」との依頼がありそれに赴く途中であった。? 鮮人と見るや警戒団の約20名ばかりは自動車を取巻き2、3押問答をしたが、そのうち誰ともなく雪崩れるように手にする兇器を振りかざして打ってかかり、逃走した2名を除く15名の鮮人に重軽傷を負わせ怯むと見るや手足を縛して路傍の空地へ投げ出してかえりみるものもなかった。? 時経てこれを知った駐在巡査は府中署へ急報し、本署から係官急行して被害者に手当を加えると共に一方加害者の取調べに着手したが、被害者の1名はロ3日朝遂に絶命した。なお2日夜警戒団の刃を遁れて一時姿をくらました2名の鮮人中、1名は3日再びその付近に現われ軽傷を受けて捕われ、他の1名は調布町の警戒団のために同日これまた捕えられた。被害者は3日府中署に収容されたが、同署の行為に対し当時村民等には激昂するものさえあり「敵に味方する警察官はやつつけろ」などの声さえ聞いた。
『国民新聞』1923年11月21〜212日? 「鮮人18名刺殺犯人12名起訴さる府下千歳村の青年団員」? 9月3日夜、府下豊多摩郡千歳村に起こった鮮人18名刺殺事件の嫌疑者として〔略〕取調を受けていた同村、青年団員並木総三(51)・福原和太郎(43)・並木波次郎・下山惣五郎(29)・宮崎龍助(30)・下山武市(24)・小曇三郎(24)・駒沢金次郎(23)・下田久治(23)・下山馬次郎(30)・下山友吉(24)・志村宇三郎(30)の12名は8日いずれも殺人罪で起訴され〔略〕。
【注@】越中谷利一(作家、当時習志野騎兵連隊に所属)は、世田谷区に関係のない記述なので省略しました。
【注A】?『東京日日新聞府下版』によって、「世田谷区烏山・大橋場の跡」に於いて虐殺された朝鮮人は洪基台氏(35歳)であることが明らかになりました。
日本人として心から謝罪すると共にご冥福をお祈り致します。(合掌)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
(了)
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