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石見銀山 〜世界遺産〜 

2011年09月14日 外部ブログ記事
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石見銀山

歴史



鎌倉時代 延慶二年(1309) 初めて石見銀山が発見されたという

     大永六年(1526) 博多の商人・神屋寿禎(かみやじゅてい)石見銀山を発見する

 

     享禄元年(1528) 大内義隆が矢滝城を築き、石見銀山を支配下におく

     享禄四年(1531) 川本を本拠とする小笠原氏が銀山領有
     
     天文二年(1533) 石見銀山で灰吹法(はいふきほう)による銀精錬がはじまり、
              以後国内の他鉱山に広まる

              大内氏銀山を奪回
     
     弘治二年〜永禄五年(1556〜1562)
     
          毛利氏と尼子氏が互いに銀山の争奪戦を展開し、やがて毛利氏が支配する


     永禄十一年(1568)ポルトガル/ドラードの日本図に「銀鉱山王国」の記載

     天正十三年(1585)豊臣秀吉が関白となり、毛利氏と豊臣氏の共同管理となる。
                
     慶長五年 (1600)関ケ原の戦いの後、徳川氏が領有

     慶長六年 (1601)大久保長安、初代奉行となる。
   
     慶長七年 (1602)年産4千貫=15トンの銀を産出する。

     慶長八年 (1603)安原備中、年3600貫=13.5トンの運上を納め、家康に謁見(「銀               
              安原備中とは備中国早島(今の岡山県南部)生まれの
              山師・安原伝兵衛のことです。
              伝兵衛は石見銀山初代奉行・大久保長安と共に京都伏見城にて
              家康に謁見。その時家康から「備中」の称号を受けました。

    慶長十八年 (1613)大久保長安死去 
              
              家康に寵愛され(天下の総代官)と称され、
              家康直轄領の150万石の実質的な支配を任されていたと
              言われていました。    
              
              しかし晩年には、全国鉱山からの金銀採掘量の低下から
              家康の寵愛を失い、美濃代官をはじめとする代官職を次々と
              罷免されました。



     寛永元年 (1624) 銀山全体の銀産出量が減少し始める。
              年間2200貫=8.2トンを納めました。

    

    延宝元年〜天和二年(1673〜1682)銀産出量がさらに減少
              10年間の平均産出高261貫=980キロ                                     



    延宝三年 (1675) 石見銀山領は代官統治へ格下げとなりました。


::::::::::::::::::::::::::::::::::   

まずは石見銀山世界遺産センターへ

撮影はここまで
展示内容は充実していました。


石見銀山みてあるき
ちょっとグシャグシャになってしまいました。
ここで見ることができます。
http://www.visit-ohda.jp/usr/images/ginzan_11F.pdf

これを見ながらの散策でした。
ABC間は車は一切入れません。


世界遺産センターからバスでB付近の大森へ移動しました。(190円)

五百羅漢
中に入るには五百羅漢だけに500円要ります。
ここは外から撮影



ここから龍源寺間歩(りゅうげんじまぶ)まで2.3キロの登りになります。

暑いし坂がつらそうなので電動アシスト付き自転車をレンタルしました。(700円)


約10分で到着。
龍源寺間歩(400円) 

説明

入り口



少し入った所より入り口を振り返る。


入り口より60m地点
涼しいというより寒い。ここにあった温度計では7度でした。

明かりがあり、前後に人がいるので平気でしたが一人で入り誰もいなかったら
かなり怖いと思います。




左右に何本もの細い抗が掘られています。



入り口から約160m地点 
看板文
坑道は左にカーブしながら195m地点で落盤のためふさがっています。
ここから奥は高さ約2m幅約30cmでおとながやっと通れる大きさで江戸時代のものです


ここから新しく作られた大きい坑道で出口に向かいます。



出口


鉱床断面図
龍源寺間歩規模の鉱道が他に10数本ありました。


佐毘売山神社 鉱山の神である金山彦命(かなやまひこのみこと)を祀る。
  
龍源寺間歩出口から約200mほどのところにあります。
が・・毒蛇注意の看板がある草ぼうぼうの階段を登る気力は無いです。


栃畑谷・昆布山谷 看板
 
看板文
この説明板の左手、少し高くなった場所に鉱山の神である金山彦命(かなやまひこのみこと)を祀る佐毘売山神社があります。
参道から佐毘売山神社に向かって左側の谷が出土谷、右側が昆布山谷で、現在の地を含めて、龍源寺間歩出口前の川に沿ったこの谷一帯が栃畑谷です。どの谷も銀山開発にともなって造成した平坦地が階段状に連なり、石垣や井戸、間歩(坑道)が見つかっています。
 栃畑谷の発掘調査ではじめて製錬遺構が発見されたのが現在の地です。

16世紀中ごろの遺構のほかにも江戸時代の文献に「三尺」とある灰吹炉や明治時代の藤田組に関連する建物跡も見つかっています。
 文化13年(1816)の「銀山旧記」には「長崎より唐人なりと来たり住す。朽多の頭に唐人屋敷,唐人橋という名あり」とあり、近くに小字(こあざ)「朽多(くた)」と「唐人橋」の名が残っており、唐(=韓、朝鮮半島)からの技術導入をこの地区は伝えています。
 現存しませんが、古図などによると、神宮寺、妙像寺、妙本寺、蓮教寺、長楽寺、長福寺、虎岸寺、西福寺など多くの寺院もありました。
 昆布山谷は水上町三久須(みくす)へ抜ける街道があり、一帯には寺跡、集落跡だけでなく、数多くの間歩が残っています。特に「五か山」の一つで、代官所直営の「御直山(おじきやま)」である新横相間歩がある谷として知られています。


まむしと書いてあるだけで行く気がしません。



自転車に乗ってきた割に疲れました。
これからA地点まで下ります。

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