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石見銀山町並み 

2011年09月16日 外部ブログ記事
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龍源寺間歩から下ります。

石見銀山御料銀山町年寄山組頭遺宅 高橋家

高橋家は代々銀山の町年寄、山組頭など、山方・町方の役人を勤めた家



清水谷精錬所跡

自転車を借りた時見せてもらった写真では
大きく綺麗な石垣段でしたが、実際は草ぼうぼうでした。
パッと見、石垣もわからない状態でした。


説明板



説明板 文

徳川幕府が崩壊し、明治時代になると、石見銀山では、一部の既存 の間歩(坑道)を利用した地元の人たちによる小規模な採鉱(さいこう)がかろうじて続いていましたが、本格的な銀生産の再開は、明治19年(1886)に萩出身の藤田伝三郎(ふじたでんざぶろう)たちが起業(きぎょう)した大阪の藤田組(現在の同和鉱業株式会社の前身)による  採掘権(借区権)の入手を待ちます。

 藤田組は、仙ノ山(せんのやま)の南側の本谷地区の福石鉱床(ふくいしこうしょう)の金銀含有率と量に着目し、それによる銀生産を計画、明治27年(1894)武田恭作氏(当時東京帝国大学冶金学科学生)の設計による近代的な銀の製錬所の建設を開始し、20万円の巨費を投じて翌年に完成、4月から操業を開始しました。
 
この製錬所には写真のような施設群があり、福石鉱床で採掘した原料の鉱石は、新たに掘削した金生坑(きんせいこう)と拡張した既存の蔵之間歩(くらのじょうまぶ)を通って製錬所の最上段までトロッコで運んでいた状況をうかがい知ることができます。
 
鉱石の品質が予想より悪くまた設備の銀の製錬能力も十分でなかったことから不採算(ふさいさん)となり、明治29年10月に、開始からわずか1年半で操業を停止しました。

その後、藤田組は柑子谷(こうじだに)に永久製錬所を新たに建設して、銅生産を中心に
大正12年(1923)まで操業しました

ちょっと登ってみました。


アーチ状になっている所
草ぼうぼうで怖すぎです。

草刈がされて石垣が完全に見えたらかなり見ごたえあると思います。残念



豊栄神社



豊栄神社は、戦国の武将毛利元就を祀った神社で、境内の石造群には長州軍の隊士172名の名が刻まれています。

第2次長州戦争の際、石見に侵入した長州軍は益田において浜田・福山両藩兵(はんぺい)を破り、
大森に進駐しました。
代官鍋田三郎右衛門はすでに役人たちと備後(びんご)上下の陣屋に撤退した後でした。
進駐した長州軍の隊士たちは長安寺に藩祖である毛利元就の木像が祀られていたことに感激し、
境内を整備するとともに、本殿、拝殿、随身門、鳥居などを建立し、石燈籠、狛犬、用水溜(いしどうろう、こまいぬ、ようすいりゅう、ちょうずばち)手水鉢などを寄進しました。

維新後の明治2年、朝廷から豊栄神社に社号が贈られ現在に至っています。

そんな由緒ある神社がなぜこんなに荒れているのでしょうか?
銀山も大事ですが・・・


毛利紋



本堂? 




隣の西本寺                      




伝山吹城門
山吹城解体後銀山の龍昌寺の山門として移築され、その後龍昌寺が移転したため、
西本寺の山門となっているのだそうです。




石見銀山公園にある模型



町並み



観世音寺
なんだか熱中症ぎみになりました。
階段を登る気がしません


石見銀山資料館
ここで涼み回復しました。


城上神社


拝殿の天井には色彩豊かに天井一面に家紋と龍が描かれています。


鳴き龍
四回拍手をして下さいと書いてありました。
誰も来ないので何度も鳴き龍を聞きました。
キーンというかピーンにも聞こえました。


熊谷家住宅
熊谷家は郷宿、代官所の御用達を務め、石見銀山御料で最も有力な商家でした。



帰りのバス停近くで見たマンホール


@@@@まだ見たい所がたくさんありますが一日では廻れませんでした。@@@@




鳴き龍のせいか気分も良くなったので海まで出ました。
温泉津(ゆのつ)まで行きました



不言城看板

不言城(福光城)は元々福光氏の居城であった が、 1559 年に毛利家家臣の吉川経安 ( きっかわつ ねやす ) がこの地に所領を与えられた際に改修を加 えて居城とした。急峻な山に二の丸、三の丸を備 えた本格的な山城である。

当時は毛利氏と尼子氏による銀山争奪戦のさな か。福光は主要街道が交わり、港も有する交通拠 点として栄えていた。さらに銀山を守る最前線で あり、尼子氏と石見の尼子派勢力を分断する軍事 上の要衝でもあった。 1561 年 尼子方 5,000 人の 攻撃を受けたが、経安は当時まだ珍しかった鉄砲 を活用し見事撃退している。

経安の子・経家(つねいえ)は、 1581 年鳥取 城で羽柴(後の豊臣)秀吉と戦い、兵士や民衆の 助命のため自害した悲劇の名将として有名である。 鳥取城山麓には銅像が立てられ、毎年慰霊祭が催 されている。また、岩国市にある石見吉川氏の屋 敷跡にも 弔魂碑が建立されている。
経安が京の石工 坪内氏を招いて興した福光石の 採掘・加工は、その後、五百羅漢などに用いられ、 地域の文化・景観にも大きな影響を与えた。

不言城は経安・経家・経実(つねみ)の3代に 渡って居城として利用されたが、 1593 年に経実が 吉川氏本家の家老に迎えられ、岩国に移るととも に廃城となった。

吉川氏による統治はわずか 34 年間であったが、福光石や菩提寺の浄光寺、祈 祷寺の楞厳寺(りょうごんじ)など、現在も当時を偲ばせるものが色濃く残る。

城跡は地元の不言城会により案内看板や山道が整備されており、 20 分あれば 本丸まで登ることができる。石垣や巨石・観音像などが残り、廃城となって 400 年を経た今なお往時の風情を残している。      温泉津町誌より

不言城



鵜丸城、櫛山城


鵜丸城


櫛山城 先端の方らしいです。


いつか登る予定です。

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