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平成の虚無僧一路の日記

「西郷隆盛」と「西郷頼母」 

2021年07月06日 外部ブログ記事
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「西郷隆盛」も「西郷頼母」も遠祖は、南北朝時代、九州の南朝方の忠臣「菊池」一族と称しており、同姓、同族のよしみで、二人は、明治になって書簡で交流があったとの噂話があります。「西郷頼母」の子は「吉十郎」といいます。「西郷隆盛」の本名は「吉之助」。弟は「西郷吉二郎」で、戊辰戦争の際、新潟県長岡市で戦死しています。偶然とは思えない共通点があります。西郷頼母は、会津戦争のさなか、11歳の一子「吉十郎」を伴って、米沢から 仙台に至り、榎本武揚の海軍に合流して、箱館に赴いました。そして、翌明治2年「箱館戦争」となり、榎本武揚に対しても降伏を勧めたといいます。箱館戦争終結後、「頼母」は東京に護送され、館林藩に幽閉されます。明治8年、「西郷頼母」は磐城国の都々古別(つつこわけ)神社の宮司となりましたが、11年に職を辞しています。理由は「頼母」が「西郷隆盛」の挙兵(西南の役)に与(くみ)して、資金援助を行おうとしていたという疑いを持たれたためというのです。息子「吉十郎」が西郷隆盛の下で養われていたという話もあります。翌(12)年、一子「吉十郎」が22歳で亡くなります。「佐川官兵衛」はじめ多くの旧会津藩士が、「戊辰の復讐」と称して、「警察隊」に志願して西郷隆盛」の軍と戦ったのに、「西郷頼母」は「西郷隆盛」に味方したというのは、ちょっと意外な気がします。ま、この説は、“噂”だけで、証拠がありません。

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