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平成の虚無僧一路の日記

西郷頼母と養子「四郎」 

2021年07月06日 外部ブログ記事
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姿三四郎のモデル志田四郎の養父西郷頼母(たのも)(1830-1903)とは?。

姿三四郎のモデル西郷四郎? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? 会津藩家老 西郷頼母
先祖代々会津藩筆頭家老の家柄。幕末、藩主松平容保が「京都守護職」を拝命した時は「火中の栗を拾うもの」と反対し、藩主の不興をかった。戊辰戦争となると、白河口の総指揮を任されたが 敗れ、一子「吉十郎」を連れて米沢に向かう。これは、「反戦論者の西郷を、藩主容保が退けたため」とも「米沢に救援を依頼」に行ったとも言われる。その間、西軍が城下になだれこみ、西郷の一家、祖母、母、娘21人が、自宅で自刃した。西郷頼母は、その後、函館戦争にも加わり、敗れて幽閉された。後、1875年(明治8年)福島県棚倉町の「都々古別(つつこわけ)神社」の宮司となる。1877年(明治10年) 西南戦争が勃発すると、西郷隆盛との仲を疑われ、宮司を解任される。
戊辰戦争で西軍の総指揮官が「西郷タカモリ」。迎え撃つ会津藩の筆頭家老が「西郷タノモ」。「西郷隆盛」の本名は「吉之助」。「頼母」の一子は「吉十郎」。「吉十郎」は西郷隆盛の下に世話になっていたとか。1879年(明治12年) 一子「吉十郎」が病没する。頼母は戊辰戦争で 妻も娘たちも失っており、これで身寄りがいなくなった。翌 1880年(明治13年)頼母は、日光東照宮の禰宜(副宮司)となり、日光に移る。旧藩主「松平容保」が日光東照宮の宮司になったため、その補佐役をかって出たのであろう。さて、では いつ養子を迎えたのだろうか。「志田四郎」が、講道館に入門したのは、明治15年(1882)17歳の時。講道館に残されている「四郎」の柔道着には「志田四郎」と書かれているのだ。「西郷頼母」は、1887年(明治20年)には 日光東照宮の禰宜を辞し、大同団結運動に加わる。会津と東京を拠点として政治活動に加わり、代議士となる準備を進めていたが、大同団結運動が瓦解したため、政治運動から身を引き、郷里の若松(現会津若松市)に戻った。1889年(明治22年) 現福島県伊達市霊山町にある霊山神社の宮司となった後、郷里の会津に戻り、1903年(明治36年)死去。かつて 2,500石の禄を食み、鶴ヶ城の大手門前に広大な邸宅を構えていた「西郷頼母」は、最期は、長屋に独り住まいし、淋しく亡くなった。 養子の「西郷四郎」は、嘉納治五郎が洋行中の1890年(明治23年)『支那渡航意見書』を残し講道館を出奔。以前から交流のあった宮崎滔天とともに大陸運動に身を投じる。義父「頼母」が亡くなる前年、1902年(明治35年)、鈴木天眼が長崎で『東洋日の出新聞』を創刊すると、同新聞の編集長を務める傍ら、長崎で柔道、弓道を指導した。そして、1922年(大正11年)、妻の実家のある広島県尾道で病気療養し死去した。西郷四郎はいつ西郷頼母の養子になったのか、養子になりながらも二人の接点はどこにも見出せないのが謎。不思議、不思議。

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