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敏洋’s 昭和の恋物語り
水たまりの中の青空 (そして、今……)
2021年06月10日
テーマ:テーマ無し
差しつ差されつ飲む、このひと時は、互いにとって至福の時間だった。
時折、襖の外から「女将さん、申し訳ありません」と遠慮がちに声がかかる。
しかし少しの時間を離れるだけで、すぐにまた戻ってくる。
武蔵はその間、所在なく庭先に目をやっている。
本館の池泉回遊式庭園戸は異なり、熱海地区では珍しい枯山水の庭園様式をとっている。
大女将の決断で造り上げたということで、その真意については光子も知らないという。
ただ、石や砂などを用いて水の流れを表現するのは「あたくしの人生そのものなのです」と、珍しく酔った折に繰り言が飛び出したという。
「無味乾燥だったということじゃないのよ」。
「光子さん、あなたなら分かってくれるわね」
。正直のところは、大女将の真意は分からないという。
ただ推測するに、己を偽り続けたその悔悟の念ではないのか、しかしまた十分に満足できる人生を送ってきたという自負ではないのか。
そう思えると言う。
この離れに腰を下ろしたときからその機会を探っていたが、武蔵としては珍しく躊躇してしまった。
光子に対してこの申し出が、下心があると思われるのではないか、武蔵という男に対する評価を下げることはないか、
そんな思いから揺れ動いていた提案を思い切って口に出すことにした。
「どうだろう、女将。復興めざましい東京に出てみないか。
今ならぼくにも資金援助が出来る。純粋に商売として考えてのことなんだけれど。
女将の度量なと采配があれば、十分に勝算はあると思うのだが」。
「いや待ってくれ。もうしばらくぼくの話を聞いてくれないか。
たしかに、商売だけじゃない。女将、光子さん。
ぼくはあんたに惚れている。本気だ、ぼくは。
男と女ということじゃない。人間としての光子さんに敬服した。
いやそれも違うな。とにかくだ、光子さん。
あんたと離れるのが辛いんだ。距離的なものじゃない、そう、こころだ。こころで触れあいたいんだ」。
「今すぐにとは言わない。考えてみてくれ。
来月辺りには、また来るつもりだから。返事はそのときに聞かせてくれ」。
杯を空にして喉を潤しながらの、武蔵の長広舌だった。
背筋をピンと伸ばした光子の姿は、凜としていた。
老舗旅館である明水館の女将としての風格を十分に感じさせる。
本人の口からこぼれた、自分自身を貶めるような言葉ですら、光子という女将の品格を落とすものには、武蔵には感じられなかった。
「地獄を見ました」という言葉の中に、その壮絶な日々を乗り越えきった光子という女性の度量を感じた。
「武蔵さま、ありがとう存じます。そのおことば、胸に響きました。
これまでにも似たようなお話は、多々いただきました。
ですがそれらすべてが『二人で儲けましょう』であり、また男と女の関係を期待されてのことでございます。
それはそれで光栄なことなのですが。わたくしの分は、ここまででございましょう。
これ以上は無理というものでございます」。
武蔵の方にしっかりと視線を向けながら、なおも続けた。
「若い頃には野心もございました。
その頃に武蔵さまからそのお話を頂いていれば、東京でも大阪でも、どこにでも考えたかもしれません。
ですが今のわたくしは、もう野心はございません。
『ほど』ということばを、噛みしめております。
武蔵さまとは、もっと若い頃にお会いしたいものでしたわ」。
目は笑っていたが、座卓で握りしめているハンケチがくしゃくしゃになっていた。
「女であることを捨てて、女であることを武器にして、ここまでやって参りました。
わたくしも、四十になりました。
普通の女に戻りたいと、思うこともあるんですよ」。
屈託のない笑顔を見せる光子に、武蔵は大きく頷いた。
「疲れました、すこし」ということばが光子から漏れたとき、これまでの辛酸の日々を忘れ去るときは来るのだろうかと思った。
大女将のような大往生が出来るのだろうかと思った。
(あと20年頑張ってみよう。その間に若女将を育て上げて、この明水館を託そう。
そのときにわたしの隣にいるのは、清二だろうかそれとも……)。
光子の目から妖艶な色の光が消え、湖水に写る涼しげな月の光が宿っていた。(了)
*本編から離れたエピソードです。久しぶりに書き殴りました。
思いの丈を全てつぎ込んだ、そんな自負があります。
光子に対する悪口とそれに対する光子の言い分だけのつもりだったんですけどねえ。
珠恵に栄三、そして清二に三郎なんかが出てきたものですから、ついつい。
推敲をしていないので、時系列的におかしな部分があったかもしれません。
時代背景と合わぬ記述があるやもしれません。
ネット検索をかけながら、齟齬のないように務めたつもりですが。
なにしろ構成も何も考えずに、ただただ思いつくままに書き綴りましたからねえ。
勢いだけは削ぎたくない、そんな思いだけで突っ走りました。
わたしにしては珍しく、これほどの長文を短期間(ほぼひと月)に書き上げたのは、まさしく高校時代以来です。
「まだこんなに妄想力があったのか」。驚くばかりです。
光子に対する思い入れが強かったせいがあるのでしょうね。
機会があれば、作品として仕上げてみたいと思います。
2〜3回で終わらせる予定でしたが、悪い癖で妄想(といっても、良い意味でですよ)がどんどん膨らんでしまいました。
でもこれで少しすっきりしました。
武蔵という男のイメージも、わたしの中でより鮮明になりましたし。
武蔵はなぜ小夜子を気に入ってしまうか。
光子という女を通して、ひょっとしてその一端が皆さんにも伝わっていれば、と願っています。
では、次回からの[第2部:武蔵と小夜子との出逢い]をお楽しみください。
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