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平成の虚無僧一路の日記

大同年間に何があったのか 

2020年03月12日 外部ブログ記事
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平安時代の初め「大同」という年号がある。西暦806〜810年。平安宮(京都)遷都を行った桓武天皇の後「平城天皇」と「嵯峨天皇」の御世。この「大同年間に創建された」と伝える寺が東北の各地にある。また、東日本大地震で明らかになったが、「大同年間」に大地震や噴火があったとする伝承が各地にある。那須連峰の茶臼岳、尾瀬ケ原の燵ガ岳、蔵王の刈田岳、そして会津磐梯山の噴火。そして、それを鎮めるために建てられたという「恵日寺」『勝常寺」他、茨城県の雨引千勝神社、早池峰神社、赤城神社、いわき市の湯の嶽観音、富士宮市の富士浅間神社、京都の清水寺、奈良の長谷寺。香川県の善通寺をはじめとする四国遍路八十八ヵ所の1割以上が大同年間の創建と伝えている。さらに、神楽の起源も大同二年作。それだけではない。秋田県の阿仁銀山、高根金山、吹屋銀山をはじめとする各地の鉱山の開坑も、大同年間。兵庫県・生野銀山の正式記録は「天文十一年(1542)開坑」となっているが、伝承では大同二年である。おまけに八溝山や森吉山などの鬼退治伝説。加えて、肘折温泉ほか、温泉にまつわる伝承も「大同年間」というのが多い。ところが、大同年間に、火山の噴火や津波、旱魃など天変地異があったとする証拠は見つかっていないたのだ。それなのになぜ「大同年間」なのか。大同年間とは「平城天皇」の世である。桓武天皇崩御の後即位したのは「平城天皇」。その名前が意味するごとく、794年、桓武天皇によって都は奈良(平城宮)から京都(平安宮)に遷都されたばかりなのに、その子である「平城」は、奈良へ都を戻すことを画策した。これは、臣下の反対にあって、在位わずか3年で弟の「嵯峨天皇」に位を譲ることとなる。また、坂上田村麻呂の“蝦夷征伐”が終わったのも大同の直前だった。そして、弘法大師空海が、唐から帰国したのが大同元年なのである。まさに、大同年間は、坂上田村麻呂によって、東北まで朝廷の威光が拡大した年であり、平城天皇は全国に観察使を派遣し、地方情勢を調べさせたり。全国に「鹿島・香取」などの軍神を祭る神社を建てている。福島県の中央には「田村郡」があり、また阿仁銀山の開坑なども、田村麻呂の功績となっている。加えて、弘法大師空海を迎えて、京都に清水寺を創建し、真言密教の加持祈祷力を利用して、病弱だった「平城天皇」は 全国の寺社に自分の健康祈願の祈祷をさせたのだった。ところで、空海が帰朝したのは「大同元年(806)」と言われるがはっきりしない。帰朝したばかりの空海の真言密教が即、都で迎え入れられたとは考えられない。空海が重用されるのは次代の「嵯峨天皇」によってである。であるから、全国各地の「大同伝説」は、はるか後世の人々が、空海と大同年間を結びつけて、作り上げ、広めていったものと考えられる。その役回りを担ったのが、山岳信仰と密教を集合させた「山伏」であった。磐梯山も湯殿山も、富士山もみな「山伏による山岳信仰」によって支えられてきたのである。

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