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敏洋’s 昭和の恋物語り

九州旅行 〜ルーツ探しの旅〜 (十五)三日目:吉野ヶ里遺跡 にて。弥生時代にタイムスリップ! 

2019年08月06日 外部ブログ記事
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儀式の様子が展示してありました。
巫女さんでしょうかね、神様を祀っているのは。
神さまは男性であるという前提で、「接待するのは女性でなければならぬ」ということなのでしょうか。
白装束のわけは、純真無垢ということを体現するためなのでしょうね。
横に控えている男性たちすら白装束です、やはり神前では敬虔さが求められるのでしょうか。
そんな疑問に対する答えは、見つかりませんでした。
ガイドさんに聞けば良かったのですが、あの時にはそんな疑問を持ちませんでした。


長の元、しっかりと協議をして集落を守ったのでしょうね。
こちらの衣装は色とりどりで、身分の高低を現すのでしょうか。

ごめんなさい。
この2枚の写真は、弥生時代の集落群にタイムスリップする前ですね。




ここが集落の入り口でしょうか。
前にもお話ししましたが、くねくねと曲がりくねっていました。




柵の前には壕が掘られていますが、外敵侵入に対する備えでしょうね。
定住するということは、財産を持つということになり、次第に今で言う格差が生まれるのですね。
なのでそれらを守る体制が生まれると言うことでしょう。


門の上に2羽の鳥が乗っかっていますが、守り神なのでしょうか?
いよいよ、中に入ります。

この地に、一体どれほどの村人が居たのか?
答えを聞いた記憶があるのですが、メモっていなかったので正確な数字が分かりません。
日本全体で行くと、弥生時代(紀元前二世紀)には約69万人だということです。
縄文時代の人口は、早期(紀元前八世紀)に2万人、前期(紀元前六世紀)に11万人。
中期(紀元前五世紀)が最も多くて26万人、後期(四世紀)には16万人、(三世紀)に最少の8万人に落ち込みます。
理由としては、赤児の死亡率が高いという事実があるということでした。
テレビ等の歴史ドラマでご承知のように、江戸時代においても赤児・幼児の死亡は多かったですもんね。






お棺です。
当時は土葬です。

−−−−−−−
 縄文時代・弥生時代の人口数は遺跡数等からの推計によっているが、単純な増加ではなく、早期(8100年前)・前期(5200年前)から中期(4300年前)にかけて急増した後、後期(3300年前)・晩期(2900年前)にかけて急減し、その後、弥生時代(1800年前、西暦200年頃)に入って、再度、急増している。

 1万年前日本列島の平均気温は現在より約2度低かったが、6000年前には現在より1度以上高くなった。この結果、東日本は、ブナを中心とする冷温帯落葉樹林は後退し、代わってコナラ、クリを中心とする暖温帯落葉樹林が広がり、西日本はカシ、シイの常緑照葉樹林となった。木の実の生産性は照葉樹林より落葉樹林、特に暖温帯落葉樹林が圧倒的に高いため、こうした温暖化により東日本を中心に日本の人口は急増したといわれる。氷河が溶けて海面が上昇し、日本列島の海に面した平野部は深くまで海が入り込ん奥東京湾などを形成したのもこの高温期のことである(いわゆる縄文海進)。
 4500年前から気候は再度寒冷化しはじめ、2500年前には現在より1度以上低くなり(ピーク時より3度低くなり)、日本の人口の中心であった東日本は暖温帯落葉樹林が後退し、人口扶養力が衰えた。そしてまた、栄養不足に陥った東日本人に大陸からの人口流入に伴う疫病の蔓延が襲いかかり、日本の人口は大きく減少したと推測されている。
 弥生時代以降、稲作農耕の普及と国家の形成に伴って、人口はめざましく伸長した。

(文献)
鬼頭宏(2000)「人口から読む日本の歴史 (講談社学術文庫)」
鬼頭宏(2007)「[図説]人口で見る日本史」PHP
深尾京司・中村尚史・中村真幸編(2017)「岩波講座日本経済の歴史1中世」
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*次回は、8月18日(日)となります。

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