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蒲生氏郷(39歳で病死した希有の智将) 

2018年07月23日 外部ブログ記事
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蒲生氏郷は織田・豊臣氏2人の天下人から信頼され希有の智将

 ☆豊臣秀吉が徳川家康よりも恐れた武将
 ☆豊臣秀吉が家臣たちに「百万の兵を率いれば誰が一番強いか」と問う
 *大多数の家臣は徳川家康、前田利家と答えた
 *豊臣秀吉はそれを否定して「蒲生氏郷」と言った
 ☆蒲生氏郷は織田信長に最も認められた武将だった

蒲生氏郷大名になる迄
 ☆父蒲生賢秀は、観音寺城主・六角義賢の重臣で、その3男として生まれる
 ☆六角氏は、観音寺城の戦いで信長に攻められ敗走する
 ☆日野城を守備していた父・蒲生賢秀は、敗北を聞いても籠城を続けた
 (織田家の部将の説得を受けて降伏した)
 ☆蒲生氏郷は、人質として織田家に差し出され蒲生家は柴田勝家の与力となる
 ☆織田信長は、人質の蒲生氏郷も一目で気に入り、次女・冬姫を蒲生氏郷に嫁がせた
 ☆織田信長が人質に娘を嫁がせる(蒲生氏郷が利発で素晴らしい面持ちだった)
 ☆蒲生氏郷は人質のまま岐阜城にて元服し冬姫を娶る
 ☆蒲生氏郷は、家臣・領民思いで、文武両道の勇士として大活躍する
蒲生氏郷、伊勢松阪城12万石の大名へ
 ☆蒲生氏郷は柴田勝家の与力として朝倉攻めに参加
 ☆姉川の戦い、長島城攻め、小谷城攻め、長篠の戦い、有岡城攻めなどで武功を挙げる
 ☆本能寺の変では、織田信長の一族を助け、明智光秀との対抗姿勢を示した
 ☆清洲会議の時期、蒲生氏郷は家督を継ぎ豊臣秀吉に協力した
 ☆賤ヶ岳の戦い、小牧長久手の戦いでは加賀野井城を壊滅させている
 ☆九州攻めでも前田利長と共に活躍
 ☆松坂城を築城し豊臣姓もを下賜される
洗礼、キリスト教徒へ
 ☆蒲生氏郷をキリスト教徒に誘ったのは高山右近
 ☆蒲生氏郷も説教を聞いて感動し洗礼を受け「レオン」という洗礼名を賜っている
 ☆病死する寸前まで蒲生氏郷の傍にいたのも、高山右近だったといわれている
陸奥会津黒川城91万石へ
 ☆小田原攻めでは、韮山城を降伏させたあと小田原城の囲みに加わる
 ☆蒲生氏郷奥州を抑える要として会津42万石として加増転封
 (検地で91万石となり、伊達政宗をけん制する役割を担う)
 ☆黒川城を蒲生流の城へと大改修し、蒲生家の家紋にちなんで「鶴ヶ城」と命名
 ☆豊臣秀吉の本心は伊達封じと蒲生封じの魂胆もあったようにも思える
蒲生氏郷39歳の若さで病死
 ☆朝鮮出兵の際、蒲生氏郷は陣中にて体調を崩し一度帰国したあと京にて養生する
 ☆伏見の蒲生屋敷にて命を閉じました(直腸癌?)
 ☆京にて療養した際に、豊臣秀吉は9名の医者を付けるよう命じた
南禅寺の僧侶の嫡子・蒲生秀行が家督を継ぐ
 ☆遺領相続で総石高を過小申告した為、問題となる
 ☆徳川家康の娘・振姫を正室に迎えると言う条件で会津領の相続が許された
 ☆蒲生秀行、器量も劣ったとこから家中の統制が取れず御家騒動が起こる
 ☆宇都宮城18万石に減封された
 ☆関ヶ原の戦いで徳川家康に味方して会津60万石として復帰
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出典、国武将列伝Ω、NHK知恵泉、WIKIPEDEA














蒲生氏郷は織田・豊臣氏2人の天下人から信頼され希有の智将
(NHK知恵泉テレビ画面より画像引用)

 

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