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2017年11月29日 ナビトモブログ記事
テーマ:シニアライフ

聖書研究会に出席してみた。

受洗して、1〜2年の人が二人、聖書は読んでいるけど、信仰心は抱いて居ない人が二人。


受洗して一年半くらい、という男性の話が面白かった。

殆ど、私と逆である、と言う意味で・・。

その人のバックグラウンドは知らないが、イースター礼拝に誘われて教会に初めて来たときに、何らかの啓示があって受洗を決めたそうである。

聖書をひもとく、という以前に信仰を得た、といおうか・・。


でも話してみると、聖書に因んだ場所を訪れたり、クリスチャン作家の足跡を辿ったり、実に行動的である様子だ。

そして、その行程で様々な人と出会ったことにより、その男性にとっての貴重な体験が、あったらしい。


私は、聖書の読書歴だけは、60年近くと非常に長い。

でも殆どは、一人で読んでいるので、読書の範疇に過ぎないとも言える。

昨日、思い出して、糸井重里のサイト「ほぼ日刊イトイ新聞」のアーカイブで、吉本隆明の講演を聴いてみた。


「喩としての聖書、ーマルコ伝ー」

彼は、宗教としてではなく、思想として、聖書を読み解いていく、という講演であった。

マルコ伝を通じて、イエスが伝えている思想を、「言葉」をテーマにして展開していく。

イエスという人は、言葉に縛られている人である。
つまり、旧約聖書で予言されていた言葉の数々を、実現する、或いは解答していく、という事に。

そして、彼の思想の重点的な三点を挙げていた。

死を間近に迎えた頃に、言った言葉。

究極に追い詰められたときは、師弟であろうと、親子であろうと、信じられる者はいない。

イエスは、自身さえ、最後の瞬間には自分を信じられなかった。

2000年経とうと変化するものではない、こういった人間性の心理を、イエスという人は言っているわけです。


そして、頻出する喩え話。
これは、所謂なぞなぞのように、喩えで問われたことを、喩えで答える事の出来る人は、その言葉の深い意味を理解している人であり、そういった理解力のある人が、宗教或いは政治の社会で、周りを治める人間と見な
される。

あと一つは・・。

ちょっと忘れてしまった。

又聴いてみよう。



私は、聖書研究会に参加してみて、自分の聖書の読み方は求道ではなく、勉強だ、と思ったが。

吉本隆明の講演を聴いて、勉強ですらない、これは娯楽だとつくづく思った。


私にとっての、聖書。



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野次馬

シシーマニアさん

そうですね。
私も、娯楽というよりは、野次馬です。

特に環境的には、非常に近いところにありましたし・・。

子供の頃は、テレビもそんなに普及していなくて、本くらいしか娯楽がありませんでした。

福音書は、読むだけなら易しいかったですし。

2017/11/30 08:04:18

私の場合は

パトラッシュさん

野次馬でした。
多くの人が読んでいる。
なら、私も覗いてみようかな……くらいの。

信じられないことが、多々ありつつも、
しかし、良いことも、たくさん書いてありました。
箴言や福音書など……

マタイの福音書の一節など、その後の私の人生における、大いなる戒めとなったりもしています。

2017/11/29 09:50:23

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