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敏洋’s 昭和の恋物語り

「ごめんね…」 (一) 

2017年11月26日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し



 戦国の武将織田信長の居城だった岐阜城のある金華山を仰ぎ見る岐阜市は、戦後に繊維の街として発展を遂げた。
国鉄岐阜(現JR岐阜)駅前で、北満州からの引き揚げ者たちが中心となって古着や軍服などの衣料を集めて売り始めた。
当時ハルピン街と呼ばれたこの一帯が、岐阜問屋街の始まりとなった。
駅前に南北を走る大通りがあり、問屋街が東と西に分かれている。
日本全国の洋品店からの仕入れ客が引きも切らない、日本でも有数の一大繊維街だ。

 東側に位置する問屋街は、通称(東)問屋町と称されている。
今でこそ多くのビルが建ち並ぶけれども、昭和五十年当時はいくつものまるで蜂の巣状態に小さな店があった。
二坪ほどに板塀で仕切られた場所で、家内工業的な縫製業者が商売を営んでいた。
全体数でいうと、正確な数字は分からないものの数百軒もの店がひしめきあっていたらしい。

 そして今日も今日とて、大勢の客がお目当ての店に入り込んでいく。
ミカン箱を敷きつめてその上にベニヤ板を乗せて作られた平台がある。
その上にブラウスやらスカートそして子供服が並べられている。
購入された商品が、大通りに面した舗道の一角に段ボール箱に入れられてうず高く積まれていく。
夕方のトラック集荷の折には、その荷物の多寡が夕飯時におけるご馳走の差となっていく。

「今夜の酒は二本かい?」
「そうとも、二本にしてもらうよ」
 どっぷりと日が暮れた頃には、そんな掛け合いがあちこちで聞かれた。

 もう一方の西問屋町と称される一角は、個人商店もありはしたが、小規模ながらも会社としての店が多かった。
こちらは個人客相手ではなく、地方の問屋相手の商売が主だった。
取引にしても、客が訪れるのではなく店からの出張販売が主だった。
なので、東に比べれば人通りは少なめではあった。

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