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歴代天皇史(鎌倉幕府と朝廷との対立1) 

2017年08月21日 外部ブログ記事
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後白河上皇、後鳥羽上皇が院政を行い鎌倉幕府と対立

頼朝が後白河法皇から守護・地頭の設置を許可され鎌倉幕府成立
 ☆守護・地頭を設置した、本来の目的は弟の義経追討の為でした
 ☆一時的な措置である守護・地頭は義経の死後も続く
平家滅亡後、源兄弟の関係は悪化
 ☆頼朝は、弟の義経が朝廷から判官に任官されたことを咎め義経追討に乗りだす
この制度によって頼朝が実質的に全国を支配することができた
二代将軍源頼家時代
 ☆若くして家督を継いだため、幕府の実権は外成である北条氏に移る
 ☆頼朝の妻・政子執権し、政子の父・北条時政が政治をつかさどった
 ☆侍所・政所の執権は代々北条家が世襲して幕府の実質的な支配者となった
朝廷では、実権は九条兼実や外祖父が握っていた
 ☆九条兼実や外祖父の死後、後鳥羽上皇は権力を自らの手に集中した
 ☆3代にわたり、子供と孫を天皇にして院政を実施した
知識・意欲の向上目指し、記事を参考・引用し、自分のノートとしてブログに記載
出典内容の知識共有、購読、視聴に繋がればと思いブログで紹介しました
 ☆記事内容ご指摘あれば、訂正・削除します
私の知識不足の為、記述に誤り不明点あると思います
詳細は、出典記事・番組・画像で確認ください
出典、『歴代天皇史(三栄書房)』
 ☆本には、綺麗な絵画が記載されています








鎌倉幕府と朝廷との対立(『歴代天皇史(三栄書房)』記事より画像引用)

源頼朝は征夷大将軍に任ぜられた(後白河法皇の死後)
平氏が西国に落ちのび、朝廷では、安徳天皇の後を継いで、後鳥羽天皇が即位
源頼朝は上洛して、後白河法皇、後鳥羽天皇に拝謁したが役職を辞退
 ☆幕府を鎌倉に於くために京都での任官を辞退した
頼朝は、前右大将としての地位を朝廷から認証された

封建制度(武家による政治)
鎌倉時代前期までは、鎌倉幕府が二元的に機能していた時代
 ☆天皇を中心とする朝廷の方が権力は優勢でした
鎌倉幕府は、将軍と御家人の間で、御恩と奉公の関係を結び成立
 ☆将軍は御家人の本領を安堵、または新たに本領を与える
 ☆御家人は幕府の軍役、番役や関東御公事(課役)に就いて奉公する
主従制度のことを封建制度といい、江戸時代まで続いた

頼朝の時代に基礎が造られた幕府の仕組み
侍所(御家人を統括する)
政所(政務、財務を担当する公文所)
問注所(裁判を行う)
地方には各国に守護を置いた

朝廷では、実権は九条兼実や外祖父が握っていた
後鳥羽天皇が4歳で即位
後鳥羽天皇は文武に秀でた人物で、歌人として知られ武芸も強かった
菊の御紋は後鳥羽天皇が印として使い始め、現在も皇室のシンボルになっている
九条兼実や外祖父の死後、後鳥羽上皇は権力を自らの手に集中した
 ☆3代にわたり、子供と孫を天皇にして院政を実施した

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