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あの磯田道史氏の2時間番組「応仁の乱」 

2017年08月06日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し



いまブームの応仁の乱!}磯田道史氏が「日本で一番わかりやすい解説」を目指した2時間番組

応仁の乱のスタート
 ☆8代将軍の足利義政には、子どもが生まれず、弟足利義尚を養子とし次の将軍とした
 ☆後に妻、日野富子が息子の足利義尚を生み、将軍家で次の将軍をめぐる争いが起きた
 ☆弟、足利義視は細川勝元を頼り、日野富子と息子の足利義尚は山名宗全を頼る
 ☆将軍家2つに分かれての対立が始まり、畠山家の、内紛跡継ぎ問題等も更に加わる
 ☆室町幕府の命令も2つの派が思いに思いに出すという混乱となる
室町時代の将軍は、江戸時代と異なり、権威、力は強くない
 ☆3官領家の議長役の様な存在
 ☆その為、足利義政は西軍・東軍とフラフラとした対応、動きになる
結果、登場人物のキーワードは“自分ファースト”と“まさか”へ発展
 ☆自己中心的な欲望、メンツなど、利害が複雑にからみ合う
 ☆まさかの事態を生んでいったまさかの乱
知識・意欲の向上目指し、記事を参考・引用し、自分のノートとしてブログに記載
出典内容の知識共有、購読、視聴に繋がればと思いブログで紹介しました
 ☆記事内容ご指摘あれば、訂正・削除します
私の知識不足の為、記述に誤り不明点あると思います
詳細は、出典記事・番組・画像で確認ください
出典、NHKBS番組『英雄達の選択スペシャル』、知識の泉(小中学生向け)
 ☆番組の画面引用(集中して番組視るので内容良く理解できます)














「応仁の乱」(『英雄達の選択スペシャル』番組画面より画像引用)


応仁の乱での陣の比較
兵力:西軍9万人(後に11万人)、東軍16万人
東軍、細川勝元は室町幕府の屋敷を本陣として、将軍や天皇らお味方につけて大義名分をたてた
 ☆細川勝元のもとには24か国の守護大名から16万の兵が集まった
西軍:山名宗全は、弟の足利義視を将軍としてたてた
 ☆20か国の守護大名から9万の兵を集めた
 ☆後に、守護大名の大内氏が2万の兵を率いて山名宗全の側についた
両軍の兵力はほぼ同じとなった
将軍家の跡継ぎに加え、畠山家、斯波家のあとつぎ争いが加わる
京都では合計25万〜27万の兵が11年間、合戦をくり返した
合戦はしだいに京都から地方へと広がり、全国的に内乱状態におちいった
京都では、貴族や武士の屋敷、御所、寺院など3万けんほどの家が焼け、焼け野原となった

応仁の乱の経過
東軍、西軍とも力にあまり差がなかく、勝負がつかなかった
山名宗全の死、2ケ月後細川勝元の死で、戦いが終わるきざしが見えてきた
山名宗全の息子と細川勝元の息子の間に講和が成立した
 ☆その後3年間、両軍のにらみあいは続いた
京都での戦争は1477年に終了した

応仁の乱の結果
室町幕府と将軍の権威がなくなり、守護大名や武士が命令に従わなくなった
守護大名がその領地をとりあう、戦国時代にうつっていった
神社や寺、屋敷が焼け、大切な宝物 が焼けた
都である京都が焼け野原になる

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