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平泉に京都に匹敵する大都市(平泉中尊寺) 

2017年07月09日 外部ブログ記事
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岩手県平泉中尊寺金色堂

奥州藤原氏初代清衡が江刺から平泉へと本拠を移しましたのが平泉のはじまりです
 ☆平泉は、水陸交通の要衝地です
平泉に来た藤原清衡は、塔を建て、関山中尊寺の建立をスタートしました
塔の建立目的は、平泉が東北地方の中心であることを示すものでした
 ☆中尊寺は北緯39度で東北地方の中心に位置していました
中尊寺金色堂は、軒下や床に至るまで全てが約6万枚の金箔で飾られています
都から遠く離れた地に豪華なお堂、中尊寺が建てられました
平泉に京都にも匹敵する大都市を築きました
祀られている33体の仏像の足元に、奥州藤原氏一族3人の遺体が眠っていました
知識・意欲の向上目指し、番組を参考・引用して自分のノートとしてブログを記載
記述に誤り不明点あると思います、詳細、出典記事・画像・番組等で確認ください
出典、BS・TBS『高島礼子・日本の古都』、「平泉からHIRAIZUMIへ」HP
 ☆番組の画面引用(集中して番組視るので内容良く理解できます)










中尊寺(『高島礼子・日本の古都』番組画面より画像引用)

平泉(中尊寺)プロフィール
岩手県平泉町にある天台宗東北大本山の寺院
山号は関山、本尊は釈迦如来 開山は円仁
実質的な開基は藤原清衡で、奥州藤原氏三代ゆかりの寺です
平泉の威容は歴代当主によって整えられていきました
 ☆初代藤原清衡が建てた中尊寺では、塔と高さが15Mもある二階大堂
 ☆二代藤原基衡と三代秀衡に亘り築かれた毛越寺
平泉の理念は、仏教による平和社会の構築です
 ☆究極の姿は無量光院に見ることができます
無量光院の本堂は極楽の宮殿を、庭園は極楽世界そのものを表現したものです

平泉建立が実現出来た背景
奥州藤原氏には、膨大な量の産金と南北交易による大きな利益がありました
潤沢な財力を惜しみなく使うことにより、平泉は成り立っていました

奥州藤原氏の繁栄
清衡の父である経清は、宮城県南部を本拠とした豪族でした
東北地方の豪族安倍氏と、朝廷との間に前九年合戦が生じると、経清は安倍氏に荷担しました
安倍氏の敗北とともに、経清も処刑されました
藤原清衡も父と同様に処刑されるはずでしたが、生き延びることとなりました
藤原清衡は清原家の相続争に巻き込まれました
 ☆戦いは、肉親相食む悲惨なものでした

初代、藤原清衡時代
平泉に中尊寺を建立(非戦の決意)
中尊寺の金色堂、主要な堂塔が完成し大法要を営みます
 ☆大法要では、戦争のない理想郷を造りたいという趣旨の願文を読み上げました
2年後、清衡は入滅し、遺体のまま金色堂内に葬られました

二代藤原基衡時代
父の遺志を継ぎ、毛越寺の造営を開始した
毛越寺周辺を京都の鳥羽・白河のようにすることが目的だった
金堂円隆寺は完成したものの、全体の完成を見ずに、基衡はこの世を去りました
遺体のまま金色堂内に葬られました

三代藤原秀衡時代
毛越寺は完成されました
無量光院、加羅御所、平泉館という政治的中枢部を造り上げています
要所に大寺院を配した拠点平泉が完成しました
遺体のまま金色堂内に葬られました

奥州藤原氏の落日と中尊寺
秀衡は「源義経を大将とし、息子たちの力を合わせて源頼朝と戦いなさい」と遺言
四代藤原泰衡は、頼朝の圧力に屈し、義経を自害に追い込んでいます
 ☆義経と懇意だった弟である忠衡をも殺害しました
鎌倉の大軍は、平泉に到達し、翌月に奥州藤原氏は滅亡しました
平泉は、藤原氏という庇護者を失ったことから、少しずつ衰退していきました
毛越寺の円隆寺、中尊寺主要堂塔は焼失しました

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