多摩の生活とサイクリング

戦後の米占領軍撤退に遭遇 

2017年06月02日 ナビトモブログ記事
テーマ:昔のできごと

もう60年以上東京の郊外・小平市に住んでいます。こちらに引っ越してきた当時は家もまばらで、畑地がどこまでも広がり西に見える遠い山裾まで達しているようでした。

小平に来てすぐのことです。家から少し北に歩いたところに、市(当時は町)を東西に貫く青梅街道があります。ある日その西の方からガラガラ、ゴーゴーという音が聞こえ始め、次第に近づいてくるのです。その音は何時まで経っても消えることはなく、子供心に恐ろしいと思ったようですが、母親に連れられその音を「見に」青梅街道まで行きました。

音の正体は米国の戦車、装甲車とトラックの列でした。その車列は延々とつながり、何時までたっても果てることはありません。当時はまだ砂利道だった青梅街道を、ホコリをもうもうと立てながらゆっくり走っていました。家がまばらなはずの街道の両端には、こんなにいたのか、と思うほど見物の人だかりがありました。

それは昭和27年(1952年)に発効されたサンフランシスコ平和条約により、立川や大和、横田基地に展開していた占領軍(米陸軍戦闘部隊)が引き揚げる、その「歴史的瞬間」に遭遇したようです。その時はまだ小学校に上がる前でしたが、未だに強烈な映像として覚えています(多分1954年か55年の春ごろ?)。

多摩地区は戦前から飛行場や軍事施設、工場が多く点在し、そのため戦後多くの占領軍が展開されていたようで、小平にも畑の中に米軍人の家族用と思われる西洋風の住宅があちこちに建っておりました。しかしいつの間にか段々と元の畑に戻っていったことはあまり記憶に残っておりません。

ただいつも星のマークを付けた大きな飛行機(グローブマスター輸送機)が小平上空を南北方向に飛んでいました。家の上を通過すると障子がビリビリと振動し、それを亡くなった母親が空襲を思い出す、と言って怖がっていました。

まだ戦争のことをまったく知らなかった幼いころの記憶です。



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