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英雄達の選択 

2017年03月04日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し



坂上田村麻呂(征夷大将軍)

陸奥按察使、陸奥守、鎮守将軍を兼任して、桓武天皇により征夷大将軍に任じられた
遠征に出て成功を収め、夷賊(蝦夷)の討伏を報じた
胆沢城を築くために陸奥に戻り、阿弖流為と盤具公母礼ら500余人の降伏を容れた
田村麻呂は彼らの助命を嘆願したが、京の貴族は反対し、2人を処刑された
知識・意欲の向上目指し、番組を参考・引用し自分のノートとしてブログに記載
記述に誤り不明点あると思います、詳細、出典記事・番組・画像等で確認ください
出典、NHKBS番組『英雄達の選択』、WIKIPEDIA
 ☆番組の画面引用(集中して番組視るので内容良く理解できます)


坂上田村麻呂プロフィール
陸奥国では、蝦夷との戦争が激化し、官軍が阿弖流為の率いる蝦夷軍に大敗した
田村麻呂は、大伴弟麻呂を補佐する征東副使に任じられ、軍を進発させた
田村麻呂は、蝦夷征伐に関して、中心的な役割を果たした

アテルイ
平安時代初期の蝦夷の軍事指導者
胆沢に侵攻した朝廷軍を撃退したが、坂上田村麻呂に敗れて処刑された
本名は大墓公阿弖利爲(たものきみあてりい)

桓武天皇崩御後の田村麻呂
戦功によって昇進し、中納言、大納言になった
田村麻呂は京都の清水寺を創建したと伝えられている?
平城天皇の命により富士山本宮浅間大社を創建している

田村麻呂の死後
54歳で病死し、嵯峨天皇は死を悼み「事を視ざること一日」と喪に服した
葬儀が営まれ、山城国宇治郡来栖村に葬られた
勅があり死後も平安京を守護するように埋葬された
 ☆「甲冑・兵仗・剣・鉾・弓箭・糠・塩を調へ備へて、合葬せしめ、城の東に向けひつぎを立つ」
墓所は、現在は京都市山科区の西野山古墓と推定されている

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