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カワサキ二輪事業と私 その23  入社の年の4月の日記 

2016年11月09日 外部ブログ記事
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★ 『カワサキ二輪事業と私ー自分史』でいろいろ書いてきたが、会社のことなので当時の資料に基づきながら、正確に書いている積りである。
昭和50年(1975)にカワサキオートバイ販売への出向から、単車事業本部企画室企画課に復帰してからは、会社での資料が退職するまで揃っているのだが、それまでの18年間は何も残っていないのである。
その間の18年間を日記から拾って纏めたのが、このファイルである。
日記には結構会社のことも書いてあるので、その当時のことは何となく分かるのである。
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 そのファイルがコレで、昭和32年(1957)4月1日から始まっているのである。
その4月は入社第1ヶ月目なので流石に会社での出来事が並んでいるので、まだ二輪事業は影も形もない時代なのだが、入社早々の新人の感想が並んでいるのである。
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4月1日入社して半月ほどは入社教育である。 入社教育と言っても今のようなちゃんとしたものではなくて、いろんな先輩方が来て、いろんな講話をされるのである。
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そんな記述の中から、少々自分なりに解説してみたい。
● まだ、川崎重工業・川崎車両・川崎航空機の3社が別々に独立している時代で、川崎製鉄もあったのでまず川重や川鉄の工場見学からスタートしているのである。3日の午後には六甲山にも連れて行ってもらっているのだが、ずっと明石にいて中学校は神戸で六甲山の麓にいたのに、摩耶山にはしょっちゅう上ったことはあるのだが、六甲山はこの時が初めてだったのである。
事務系12人・技術系17人でこの年は突然「神武景気」になって30人近くの採用となったのである。そんなことから同期会の名称は「神武会」なのである。
● 4日に入社式があって、砂野仁社長の訓示を受けている。私は砂野仁さんは伯父が親しくしていて、中学校1年生のころからよく知っていた『おじさん』なのである。その砂野さんのコネで川崎航空機は入れて貰ったようなものなのである。
当時は川崎航空機はまだスタートしたばかりで、世間一般には銀行などが一番人気があったのだが、砂野さんはどう思われたのか、『神戸銀行にも紹介』頂いて、神戸銀行の入社試験も受けに行ったのだが、どうも『銀行はイヤ』で試験の途中から帰ってしまったのである。 私の人生で『試験』というものを受けて滑ったのはこの1回だけである。
その砂野さんが、入社式の挨拶で『会社に入ったら頭の刈り方も・・』などと言われているが、これは間違いなく私に対しての注意なのである。ほかの人はみんな7・3にきっちり分けているのに、私だけが所謂「スポーツ刈り」だったのである。当時は伯父も父も亡くなっていたので、砂野さんは親父代わりにいろいろ面倒を見て頂いたのである。
● 伯父の葬儀の時に、砂野さんは来られていて、私は大学3回生だったのだが当時は就職難の時代だったので、『卒業後はちゃんと面倒見るから』と仰って頂いたのである。ただ、私は本来は昭和31年度の卒業で単位もちゃんと取れていたのだが昭和31年度は不景気で『今年は新人を採らないのでもう1年学校におれ』と仰るのである。そんなこともあって私は1年留年し、野球部の監督をしていて、昭和32年の入社となったのである。
●私は当時の神戸商大の出身なのだが、別に入りたくて入った大学でもなかったし、当時の就職難からとにかく「優」の数を一つでも多くという当時の学生たちの校風に馴染めず、ほとんど講義などには出ずに野球ばっかりで、単位はどんどん取れたが『可』ばかりだったのである。神戸商大野球部卒なのである。
入社試験の面接で当時の塚本課人事課長(後の単車事業本部長)の第一声は「君は成績悪いねエ」から始まったのである。いろいろやり取りはあったが、『会社の仕事などでほかの人に負けたりはしないと思います』などと言ったりしたのを覚えている。砂野さんが『ところで君は野球をやってたのか』と助け船を出して頂いて、それから延々と『野球談議』などあって、あとで砂野さんから『君は面接だけは良かったな』と褒めて頂いたのかどうか・・・
兎に角、川崎航空機には自分の力で入ったわけではないので、『砂野仁』さんの顔に泥ををぬるわけにはいかないと最後までそう思って対応した。そんなことで『給料が安い』など会社に対する文句など一切なかったのである。今でも「お世話になった」と思っている。
● 社是「正直・誠実・勤勉」 執務態度「信頼・互譲・協力」は地味だがなかなかいいと思って、ずっとコレで貫いている。
● 15日に配属が決まって、明石事務所の業務部財産課への配属となった。財産管理という地味な課で、先輩たちの評価は「オモシロくないところ」だったのだが、ここにいた実質3年間はめちゃくちゃオモシロかったのである。
私は財産課の中で『工具・器具・備品と車輌運搬具』を担当して、その分野では私がトップで女子を一人つけて頂いたのである。当時は事務屋も大学出は少なくて財産課でも課長以外は私だけが大学出身だったのである。
中身は机や椅子や自転車など大したことはないのだが、当時はまだまだ貧しい時代で、みんな机でも椅子でも少しでもいいものを『欲しがったり』木製だからよく壊れるので『修理』を希望したりするのである。明石工場全部の担当で各課には『財産管理担当者』がいて、極端に云うとそんなメンバーを束ねたトップに新人ながらいたのである。
不思議に思われるかも知れぬが、財産課には工具器具備品の償却計算書はあるのだが、その財産台帳はなかったので、財産番号を付け台帳を作ることからスタートしているのである。
そして工具器具備品は、金額は小さいのだがその件数は圧倒的に多くて、償却計算は機械装置などと比べて倍ほど掛かるので、新人ながら女子が一人ついたのである。そして入社『1年目の秋』からIBMによる償却計算の機械化に取り組んで、こんな作業は民需部門では初めてだったから、新人ながらトップの位置で本社も岐阜工場も巻き込んでのプロジェクトを推進したのである。
そんなこともあって、自分の想い通りに動けたオモシロい財産課勤務だったのだえる。
● 20日、21日に野球部のことと診療所が出てくるが、私は大学2年の秋に『肺浸潤』と言われたのだがその後も寝ていたことなど1回もなくずっと野球をやっていたら『空洞』が出来てしまったりしていたのだが、会社では野球は『軟式』だしもうやめようと思っていたのだが、野球部監督の北澤さんに口説かれて野球をすることになってしまうのである。その翌日診療所でレントゲン撮影があったりして、診療所の先生からは「野球はやめとけ」と言われたりしていたのである。
この辺りが私のダメなところで『頼まれると』断れないのである。軟式だったが結構強くて28日にあるように明石地区で優勝したりしているのである。カワサキの二輪関係の方はよくご存じの藤田孝明くんは同期入社で、私と三遊間を組んでいたのである。
財産課の在籍期間は4年なのだが、3年目の秋に診療所の先生にユニフォーム姿を見つかって、『菌が出てるから会社に置いておくわけにはいかない』と入院さされてしまうのである。ホントは菌など出ていなくて先生のウソだったのだが、この富川先生の処置で私は今生きているのかも知れないのである。
1年間入院したら『空洞』も消え失せて退院、退院した時には財産課の償却計算のIBM化はすでに機能していて、計算係など要らないので新しくできたばかりの単車の営業部門に異動になってそれから「カワサキの二輪事業」にずっと関わりをもうことになるのである。
● いまもう83歳にもなるのだが、人間その人の持ってる『運』かなと思うのである。
父も伯父も50代で亡くなってしまったので、人間生きても50年だから、その間『自分の思う通りに生きよう』と思ったのである。日記を書きだしたのも大学2回生のころで『肺浸潤』を宣告されてからである。そんなに長くは生きられないから、自分の想いみたいなものを残しておこうと思っただけである。
68歳の時には、突如「くも膜下」になって札幌の警察本部で倒れたのだが、解らなくなって10分後には救急車が来て「くも膜下だ」というのを聞いた時には「これは死んだな」と思ったのである。 運ばれた先が脳外科の先生が30人近くいる専門病院で、ムツカシイところが切れているので、『手術をせずに放っておこう』と会議で決めて、何もしていないのである。
あの時、『警察本部でなかったら』『入院先がそんな専門病院でなかったら』『間違いなく手術をされている』のである。その後、何にもなくて今元気に生きている。
どう考えても『運のいい』人生を生きていると思っている。
● 25日の『5枚複写』は決算でその資料が5枚もいるので、いまでいうコピーを手で終日書いていたということなのである。
● 26日に初めての給料を貰っている。手取り8600円とある。表向きは給料12000円で入社したのだが、それは1時間残業したらそうなるのだとか。
昭和32年はそんな時代だったから、私の給料は退職前は初任給の100倍にもなったことになるのだが、ずっと苦しい時代が続いて、貯金など出来たのは息子や娘が大学を卒業したからなのである。金が要らなくなってやっと余裕が出来た人生だったのである。
最初に貰った初任給8600円のうち、母に3000円とあるが、そのあとに石原600円、伯母に600円これは多分借金返済だろう。祖母に200円、背広の月賦2600円、靴の修理900円とある。コレで殆ど終わりである。当時は給料は安いのに、背広や靴や時計などは高くて、多分今のほうが安いかも知れないのである。
● 30日に『初めの10年、人に好かれる』 『次の10年、人に信用されるように』 『その次の10年、尊敬されるように』 などと日記に書いている。どこかの社長さんが言ってた言葉である。
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★いま、読み返してみると何となく思い出すのだが、若し日記も何もなかったら、殆どのことを覚えていないのかも知れないのである。そして仮に覚えてはいてもそれがいつだったかが、解らないのである。
ついでに5月のところを見ていたら、家内が登場したりするのである。家内は、当時は財産課のすぐ隣の勤労課の給与係にいたのだが、翌月の5月には意識していて、6月には私の野球部の親友の『小野田』が電話を掛けてきて、何故か家内のところに電話が繋がって『小野田さんと言う方から電話です』と言いに来てくれたのが初めての会話なのである。
こんなことも、何らかの巡りあわせで、大きく言えば『そんな運勢』だったのかも知れない。
ちょっと『カワサキ二輪事業と私』からは脱線しているのだが、私のカワサキでの入社1ヶ月目はこんなことで始まっているのである。
私も新入社員の新人だったが川崎航空機自体も未だかだ整備されていなくて戦時中の爆弾のあとの穴が開いてたりしたのである。その上をべニア板で塞いでいたのだが、そこを歩いて落下して新入社員が死亡するなど、考えられない時代からのスタートだったのである。
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カワサキの二輪事業はこれから4年後の昭和36年度(1961)から、実質的なスタートと言っていい。
その時のクルマは125?B7 やM5というモペットや、井関農機の空水冷のモペット「タフ50」などだったのである。
私は出来たばかりの『単車営業部』に異動したのである。
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★ その歴史ー「カワサキ二輪事業と私」を最初からすべて纏めて頂いています
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