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会津白虎隊悲しい結末 

2016年10月25日 外部ブログ記事
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徳川のために最後まで戦った会津藩

「白虎隊」圧倒的な戦力を誇る新政府軍に立ち向かい、最後は自刃し悲しい結末
勝てぬ戦い「許されなかった降伏」(京都守護時代の長州藩の恨み)
「家訓十五カ条」将軍家に逆らう藩主が現れたら、我が子孫ではないから従わなくてもよい
知識・意欲の向上目指し、番組を参考・引用して自分のノートとしてブログを記載
 ☆番組の画面引用
出典、番組BS11(尾上松也さんの古地図で謎解き!)WIKIPEDIA参考&引用
















尾上松也さんの古地図で謎解き!(番組画面引用)

松平 容保(かたもり)会津藩の第9代藩主
会津藩主・容敬の養子となり、16歳のとき家督を継承
京都守護職26歳で就任(長州藩に後々怨まれた役職)
水戸藩主・徳川治保の子孫で、現在の徳川宗家は容保の男系子孫です

松平容保は、京都守護職へ
天皇家茂の警護や、新選組・京都見廻組を組織して都の治安維持に努めました
孝明天皇からの信頼は揺るぎないものでした
役職上後の新政府軍に恨まれ、後の会津戦争に繋がる

鳥羽伏見の戦い
十五代将軍・慶喜に付き従い、大坂から船で江戸へ戻りました
慶喜には、朝廷へ逆らう意志などありませんでした
江戸藩邸の人々は容保に従おうという向きもありました

会津藩国許「家訓十五カ条」
容保と会津藩の支えとも足かせともなったのが、藩祖・保科正之の遺した教訓、「家訓十五カ条」
 ☆将軍家に逆らう藩主が現れたら、我が子孫ではないから従わなくてもよい
家訓を遵守すべしとする人々の声が高まれば、藩主といえども押さえつけられません
新政府軍も、容保以下会津藩が、素直に恭順するとは思っていませんでした
容保は徹底抗戦の覚悟を決め、会津戦争が始まりました
容保が考えを変えたのは、奥羽列藩同盟が、新政府軍に降伏してからのことです
 ☆奥羽越列藩同盟(東北諸藩34藩からなる奥羽越列藩同盟)

会津戦争
会津藩は、各国境へ主力を送り出し守備に付かせていたが、母成峠の戦いで東軍が破れた
戸ノ口原の戦いでは、東軍が崩れ、西軍が若松城下に侵入、城下の戦いと籠城始まる
長い籠城戦の中で、会津藩の家臣達は婦女子や子供に至るまで戦い、又は自決をし会津の武士道に殉ずる道を選ぶ
 ☆悲劇を生んだ(婦女子の自刃、白虎隊の飯盛山での自刃、中野竹子ら娘子隊の戦い)
西軍は、32藩からなり大砲100門、3万ないし4万人に上り城を包囲し一昼夜鶴ヶ城へ砲弾を打ち続けた
会津藩降伏鶴ヶ城開城

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