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徳川慶勝が新政府軍支援への背景 

2016年10月26日 外部ブログ記事
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徳川 慶勝(日本の幕末から明治初期にかけての大名)

徳川一門のナンバー2であった尾張藩の徳川慶勝新政府軍支援?
徳川慶勝は朝敵とされた会津藩主・松平容保の実の兄
徳川一門の結束を考えるなら旧幕府側につくのが当然
知識・意欲の向上目指し、番組を参考・引用し自分のノートとしてブログに記載
 ☆番組の画面引用しています
NHKBS番組『英雄達の選択』、WIKIPEDIA参照&引用










徳川慶勝(『英雄達の選択』(番組画面引用)

徳川 慶勝誕生
江戸四谷の高須藩邸に生まれる
徳川慶喜は母方の従弟
高須四兄弟(弟に藩主・徳川茂徳、会津藩主・松平容保、桑名藩主・松平定敬)がいる
尾張徳川家相続後は、将軍徳川家慶より授与を受け、徳川慶勝と改名した

徳川慶勝「尊王攘夷」で活躍時代
「王命によって催さるる事」を奉じて尊皇攘夷を主張した
内政では、倹約政策を主とした藩政改革を行う
幕閣では、井伊直弼がアメリカ合衆国と日米修好通商条約を調印した
慶勝は、江戸城へ不時登城するなどして直弼に抗議した
慶勝は、井伊に隠居謹慎を命じられ、弟の茂徳が尾張藩15代藩主となる

徳川慶勝蟄居時代
写真術に興味を持ち、写真を撮影している
撮影した写真は、約1,000点近く残されており、歴史的史料価値の高い写真も数多い
井伊直弼が暗殺されると、将軍・徳川家茂の補佐を命じられる
実子の元千代(義宜)が藩主となったため、その後見として尾張藩の実権を握る

徳川慶勝朝敵長州征伐時代
池田屋事件が発生し、長州藩が京都の軍事的奪回を図るため禁門の変を引き起こす
長州藩は失敗し、長州藩は朝敵となり、幕府が長州征伐(第一次長州征討)を行う
征討軍総督には、慶勝がなり、薩摩藩士・西郷吉之助を大参謀として出征した
長州征伐では、長州藩が恭順したため、慶勝は寛大な措置を取って京へ凱旋した
その後、長州藩は再び勤王派が主導権を握ったため、第二次長州征討が決定する
慶勝は再征に反対し、茂徳の征長総督就任を拒否させた

徳川慶勝(薩長同盟)時代
15代将軍・徳川慶喜によって大政奉還が行われた
慶勝は、新政府の議定に任ぜられ、慶喜に辞官納地を催告することが決定する
京都で、旧幕府軍と薩摩藩、長州藩の兵が衝突して鳥羽・伏見の戦いが起こる
慶喜は、軍艦で大坂から江戸へ逃亡した後、謹慎する
慶勝は、維新後、朝敵となった松平容保、定敬の助命に奔走した
旧尾張藩士による北海道八雲町の開拓も指導した

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