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老いてなお

国民学校を知ってますか? 

2016年08月08日 ナビトモブログ記事
テーマ:テーマ無し

   
○戦災で疎開した田舎の
国民学校初等科での二年間。
 
当時、父親はライカの写真機
何台か持ってたが米と交換し手放した。
 
母の着物も食料に化けた、
この生活は「タケノコ生活」と言われてた。
 
校庭にあった奉安殿
(天皇、皇后の写真と教育勅語を納めてた)
二宮金次郎の銅像は戦後撤去された。

○学童疎開、集団疎開、縁故疎開
第2次世界大戦末期、
米軍の空襲に備えて、都市の
国民学校初等科の児童を強制的に
地方に移住させた。

親戚などを頼る縁故疎開のほか、
地方に親戚の無い児童達は学校
単位で3〜6年生の集団疎開があった。

宿泊施設やお寺などで集団生活。
だが、配給食料は不足、環境も悪いため
ノミ、虱には悩ませられ皆やせ細ってた。

敗戦後、父母、親戚が死亡し
戻る所がなくなった子供達は
施設に収容されたり浮浪児となった。

映画「火垂の墓」と同様な
悲劇は全国にたくさんあったと思う。 

○ランドセルを背負っている
生徒は僅か、殆どは布製の肩掛けカバン,
風呂敷包み。履物は草履、下駄。

畑、田んぼの間の道を
1時間以上かけて通った。

○春、夏、冬休みのほかに
農繁休暇があった、農家の男の子は
朝から晩まで大人と一緒に農作業、
  女の子は弟妹の子守をしてた。

小学校2年ぐらいだと、
背負ってる赤ん坊の体重で何かに
つかまらないと歩けないほどだった。
とても今では考えられない。

○宿題はまずないし、先生や親
から勉強しろとは、いわれた覚えはない。

○夏は畑のトマト、きゅうり、などは学校帰りに取って食べてもあまり怒られなかった。

○秋、冬には学校帰りに田んぼに縦に積み上げた藁に潜り込み暖まったり友と遊んだりした。

○大きな蔵のある家の外便所を借りた時、
紙は昔の巻紙やハガキ
 封書類が沢山箱に入れてあった。

切手の収集が趣味の私にとっては
古い切手の宝庫であり、それ以来
毎日のよう に便所訪問をすることになった。

今でも当時に集めた切手、
ハガキが沢山残ってる。



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閉鎖社会

asi asiさん

宏子さん

当時の農村社会は非常に排他的でした。
疎開した当時、両親はとても苦労してまして、近所の人達には「腫れ物に触る」ように接していました。

2016/08/08 13:42:48

体罰

asi asiさん

阿Qさん
今でこそ体罰云々と言われますが............
廊下に立たされる、その上両手に水の入ったバケツを下げさせる。

先生が篠が有るうちは?
何人かが手を挙げ、先生の希望どうりに切って持ってきたら悪戯、問題が答えられなかった子供たちの頭を、先生は教壇から動
かずに殴った。こんなことは日常茶飯事。

2016/08/08 13:37:06

切手

asi asiさん

村雨さん
当時の切手がインターネットを始めてから思わぬ効果をもたらしました。

外国人のメル友との交流に共通の話題(潤滑油)の役目を果たしてくれました。

2016/08/08 13:27:08

戦後

宏子さん

今は表向き平和な時代ですね。
私は茅ヶ崎にいました。
疎開 丹波に親類の人を頼って行きました。

親達が苦労をしました。
田舎の人が威張っていました。

今の人を見ていて考えさせられます。

2016/08/08 11:26:01

まだまだ戦後だった

阿Qさん

前半の出来事は不案内ですが、
後半は我ら戦後産まれも、体験してきたものです。
別棟にあったくみ取り式の便所と、五右衛門風呂。
そして、しょっちゅう殴られていた先生の体罰。
今の子は生きていけないでしょう。

2016/08/08 11:13:44

当時の切手

さん

まだお持ちとは、凄いですね。
年の離れた兄かわ集めていましたが、どうしたかしらん。

2016/08/08 10:40:30

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