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平成の虚無僧一路の日記

永田洋子の死 

2011年02月07日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し



永田死刑囚が病死=元連合赤軍の最高幹部―脳腫瘍で寝たきり・東京拘置所(時事通信) - goo ニュース


あの「永田洋子(ひろこ)」が獄中病死した。65歳だった。
私より3歳上。昭和42年私が慶応に入った年、永田洋子は
共立薬科大学を卒業して、一時 慶応病院の無給研究生だった。

その後「ベトナム戦争反対」に端を発して「70年安保闘争」が
過激化し、セクト間の抗争も相次いだ。私など、学生服を着て
尺八なんぞを持っているものだから、「右翼」として 襲われる
対象だった。

その後、学生運動は沈静化し、行き場を失った連中が、逃走の
過程で 仲間割れし、陰惨な殺戮を行った。永田洋子の命令で
「総括=処刑」されたのは12人。なぜ 大の男が 小柄な永田の
ヒステリーにおとなしく従ったのか、政治思想うんぬんより、
追い詰められた人間のエゴ、嫉妬として語られる異様な事件だった。

当時「総括=死刑」という言葉が流行語になり、なんの漫画だったか
すぐ「死刑!」というギャグもあった。

事件から40年。「あの永田洋子が まだ死刑執行されていない」と
時々話題に上っていたが、脳腫瘍を煩い、脳萎縮と意識障害で、
言葉もままならず、寝たきりの状態が続いていたという。

殺された者の怨念か、清盛のように 業火に焼かれる苦しみを
味わって果てたか とさえ思えてくる最期だった。

永田洋子とともに逮捕された森恒夫は、1973年の元日、拘置所で
首吊り自殺した。遺書には「自己の責任の重さに絶望…自らに
死刑を下す」と綴られていた。しかし、永田洋子は、最後まで
罪を認めなかったという。

永田洋子が死刑執行されなかったのは、共犯のに坂東國男が
国外逃亡しているためとのこと。

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