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禅宗の伝道と日本(1) 

2016年05月07日 外部ブログ記事
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禅宗、日本で『JAPAN ZEN』へ

菩提達磨がインドから中国へ伝えた宗派で、坐禅による修行を行います
教義を説くことよりも、坐禅の修行と悟りを強調します
インドより禅宗を伝えた達磨は、二十八代目の祖です
『禅』の展覧会鑑賞で、関心を持ちましたので記載します
建仁寺の僧侶より講話を頂きました














禅宗(ネットより引用)


南禅寺管長を勤められ た、故柴山全慶老師の作

  花は黙って咲き、黙って散ってゆく、そうして 再び枝に帰らない
  けれども その一時一處に、この世のすべてを托している
  一輪の花の声であり、一枝の花の真である
  永遠に滅びぬ 生命のよろこびが、悔いなくそこに輝いている

一無位真人(いちむいのしんにん)『赤肉団上に一無位の真人有り』
一人のまことの人間には、真人がおり仏がある
皆の体の中に、無位の真人、修行する必要もない真人が一人いる
世間の価値判断で何とも価値を決めることのできない霊性です
『主人公、仏性、正法眼蔵』というもの、本来の面目というものです
肉体の中に無修無証、生まれたまま、修行等必要ない立派な主体性があります

禅宗の広がり
インドより、中国にわたった達磨が祖で、坐禅を基本的な修行形態とします
坐禅を中心に行う仏教集団が「禅宗」と呼称されたのは、中国の唐代末期からです
中国禅は、唐から宋にかけて発展したが、明の時代に衰退しました
日本に禅宗が伝えられたのは、鎌倉時代であり、室町時代に幕府の庇護の下で発展しました
明治維新以降は、日本の禅が世界に伝えられました

中国での禅宗の発展(禅宗の五家七宗)
達磨は、中国に禅宗を伝えたことにより、中国禅宗の初祖と呼ばれてます
初祖の達磨より、二祖慧可、三祖僧燦、四祖道信、五祖弘忍へと受け継がれていきます
五祖弘忍は、神秀と慧能という二人の優れた弟子を育てました
神秀(じんしゅう)と慧能(えのう)は、神秀の北宗禅、慧能の南宗禅に分かれました
慧能が中国禅宗の六祖となり、南宗禅の勢力が強くなりました
慧能の教えは、南嶽懐譲(なんごくえじょう)と青原行思に受け継がれ、禅宗の教えが中国で広がりました
南嶽懐譲の系統からは、イ仰宗、臨済宗
青原行思の系統からは、曹洞宗、雲門宗、法眼宗で、禅宗の五家が成立します
臨済宗は、黄龍派と楊楊岐派に分かれます

日本で禅宗と呼んでいるのは、
臨済宗、曹洞宗、黄檗宗の三つの宗派です
臨済宗は栄西、曹洞宗は道元により、鎌倉時代に日本へ伝えられました
黄檗宗は、臨済宗楊岐派の流れを汲む隠元が、江戸時代に中国より来日して開いた宗派です

臨済宗(日本では栄西から始まります)
日本の臨済宗は公案禅で、江戸時代に白隠がまとめたスタイルです
公案とは、裁判の公判記録のことで、禅語録として伝えられる祖師たちの対話をいいます
公安を一則、二則と数え、その対話を知ることにより悟りを知ろうとすることです
公案は、論理的な思考によって理解する事ができない内容が多いです
臨済宗のなかでは、妙心寺派が最大です

曹洞宗(日本では道元から始まります)
普勧坐禅儀を著し、只管打坐を専らとする宗風を鼓舞しました
坐禅の他に悟りを求めることを良しとせず、只管に坐禅を勤めることです
その後、坐禅だけではなく、儀式や密教の考え方も取り入れられ一般民衆に急速に拡大しました
曹洞宗の坐禅は公案に拠らず、ひたすら坐る(只管打坐)ことが、本来の自己を現じているとしています

普化宗(日本では法燈国師から始まります)
本山は一月寺(現在の千葉県松戸市)に置かれていました
江戸時代に幕府により組織化されましたが、江戸幕府との繋がりが強かったため、明治政府により解体されました
宗派としては失われ、臨済宗に編入されました
尺八や虚托の師匠としてその質を伝える流れが現在も伝わっています

黄檗宗(日本では中国臨済宗の隠元禅師が始まりです)
禅と念仏が一体化した「念仏禅」とも称されています
読経が楽器を伴う明風の梵唄であることで知られています
江戸時代の戒律復興運動に影響を与え、江戸時代は一宗として見做されませんでした
臨済宗から独立を果たしたのは、明治以後です

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