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2015年07月22日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し










先日,暑さ凌ぎに入った本屋でのアサヒカメラの8月号の立ち読みで,ある写真家氏が執筆した記事がどうにも気になったので,35℃の暑さにグジュグジュになったボケ頭で考えてみた.

あるコンテストで選んだスナップ写真が,拡大してみると一部の被写体はレイヤーを使った重ね合わせだったと審査に関わる人から言われたというのである.
これは,改竄であり,Vision(思想,経験を示すという)ではないという判断をしたという.

絵画はその意味では改竄,加工のてんこ盛り世界だ.スーパーリアリズムであれ,もちろん主観と加工の表現でしかない.
ならば,写真が芸術の一部であるとするなら,どんな加工をしようが表現の一手段でしかないはずだ.

写真が真実を示すものだなんてことはありえない.ほんの刹那に真実があるのか無いのか.それは見る人の感覚の判断でしかない.写真が真実を表現するという誤った先入観をいまだにフィルム時代の遺物として持っていることに由来するものだ.「写真が真実を表すなんて思っちゃいないよ」,と頭では理解しているが,深層ではどこかにそんな思いがあるのだ.フィルム時代だって真実なんか存在していなかったのだが.




     Leica M (Type 240)+Nokton 35mm F1.2 Aspherical








度々例に出すが,オーディオの世界で「原音録音」や「原音再生」など存在しないと同じことである.人間,機械を音が通った段階ですでに捉えられた原音はバイアスがかかり,崩れ去っているのであるから.
写真とて同じこと.
いまだに「いじること」にある種の嫌悪を抱く旧人類が存在することに ”写真道” 健在を感じずにはいられない.なんと嘆かわしいことか ┐(-。ー;)┌

コンテストだから加工はだめ.加工したことが他を蹴落とすためになされた悪であるという決めつけはいかがなものであろうか.なら,RAW撮り直JPG現像というしばりでもくわえるしかない.といっても,こんな縛りはいくらでもかいくぐれるのがデジタルだが.

フィルムが上で,デジが下という遺物的見解が,こういう表現で見られた...
デジタルプリントをミュージアムが購入し始めていることを引用しつつ...「現在もコツコツと暗室でプリンとを作成されているみなさんからは異論もあるかも知れない.確かに,マウスをちょっとクリックするだけで,標準的なプリンとがプリンターから出力されてしまう.作業としてはそれほど難しくない.だからだろうか,画像調整とは別に次々と手を加えてみたくなってしまう.実はそこに落とし穴がある」 とも.

暗室でコツコツと努力を重ねることが正しくて,ライトルームでサクサク作業することがなにやら背徳の作業のようなこの見方,それに続く落とし穴への入り口となるという偏見はいかがなものであろうか.落とし穴に入ろうが,底の底まで落ち込もうが,それは表現の一種を追求するに過ぎないことだ.大いにけっこうなことではないか.
コツコツ努力を加味して,評価をかさ上げしろとでもいうのか? そして,調整なら良いけど,加工はだめという偏狭さ.自ら芸術の幅を狭めていることではなかろうか.

かつて,JLC写真展で観覧者の方から言われた言葉を思い出す:
「デジタル時代になったのだから,もっとデジタルらしい表現の幅を広げることはできないのかねぇ.銀塩とおなじことをやっていてはだめだよ,君」 と.

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