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都わすれの「「ベガルタ応援日記」

人生とは・・5 

2010年11月19日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し

その後は母と子供たちと4人の生活が続くが、中1だった息子と小6だった娘は、中学卒業と同時に「交通遺児育英会」の奨学金で無事に高校を卒業〜!


息子は妹の息子と同学年で甥っ子の方は、東京の大学に行くことになっていたから、進学を勧めたが学校推薦の会社に就職・・4年後の就職がどうか分からないと言ったが、4年後は就職難の年だった。


息子が就職し研修で4ヶ月ほど全国を回ったが、帰ってくるまで「こけないようにするから」と言った私は、5月末にバドミントンの練習の帰りに自転車で転んで、右足の「腓骨骨折」と内側の骨の2カ所を骨折して、1ヶ月余りの入院生活を送ることに・・!


その間娘が学校の帰りに会社によって掃除をしたり、育てていた草花に水遣りをしてくれたり、1時間もかけて歩いて病院へ来る日もあった(帰りは妹に乗せられて)


高校を終えた娘は宅習いで和裁師修行、二人とも交通遺児育英会の奨学金は自分たちで支払った。


その後は二度母が入院はしたが他に何も無く息子が結婚し、翌年早々に娘が結婚・・・その後は母と二人の生活だったが長くは続かなかった。


娘が2月に結婚して3月に母は「終わったわぁ・・」とつぶやいたが、ゴールデンウィーク前から体調が思わしくなく、内科で点滴などしていたが(以前入院して心不全と言われていた)6月14日の夜に、倒れて救急車で病院に行った時は15日になっていた。


大部屋がない時は「個室でも良いですか」って聞かれたが、結果的に「間質性肺炎」と言われてICUを出ることなく、丁度2週間の入院で深夜の11時10分頃に電話を貰い駆けつけた時は遅かった。


病院に着いた時は「初めからここに来れば良かった」と言い、トイレに行くのに杖を持って来てって帰れるものと思っていたと思うが、6日目からは酸素吸入で眠らされていて毎日妹や娘だったり嫁さんだったりと、寝顔を見に通ったが妹とは泣きながら帰った〜!


夫や父の葬儀の時は妹の夫が「喪主挨拶」をしてくれたが、母の時は地の果て知床での苦労や私たちを育てるための、母の苦労を私の口から伝えたくて初めて喪主挨拶をした。


その後5年近くは息子の成人式に日に貰ってきた柴犬の、ジョン君と一匹と一人の生活だったが、近くに住んでいた娘たちが毎日のように顔を出してくれていた。


その間59歳の時に1年間リストラで退職、雇用保険を貰いにハローワークに通う。


退職の翌年4月に自宅を新築(息子が)し、同居始めて現在に至る


続く・・

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