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レーン先生 

2014年12月29日 ナビトモブログ記事
テーマ:思い出すままに

私の初舞台は、小学校入学前年のクリスマス・パーティだった。

師事していた先生は、発表会などはしない方針だったので、自分にとっては幼少時代で唯一残る、華やかな記憶だ。

昭和20年代終わりの頃である。

グランドホテルで開かれたそのパーティは、日常から離れた、さぞ煌びやかなものだったに違いない。

先生に手を引かれてピアノの前まで行った事や、ソナチネの7番を弾いたその時の感覚も、かすかに思い出すことができる。

何人もの大人達の演奏の中に、自分も一人前に参加して弾くのが、随分誇らしかったものだ。多分親が誇らしく思っていたのが、伝わってきたからだろう・・。

あれはどんな集まりだったのだろうか。

沢山の大人たちが、丸テーブルを囲んで座り、お食事をしながら、演奏を聴いていた様な気がする。

古めかしいホテルの、どっしりとした会場の思い出は、後で上塗りされたものかもしれないけれど・・。

はっきりした記憶は、帰りがけにアメリカ人の白髪のおばあさんが、「今も私の家にピアノがあったら、あなたに遊びに来て貰って、ピアノを弾いて貰いたいのに・・」と、屈みこむ様にして、分かり易い日本語で私に話かけてくれた、その場面。

レーンさんという名のその人は、街では有名な人らしく、ピアノは進駐軍に没収されたという話であった・・。

その数年後、私はその街の教育熱心な親たちが通わせる中学に入学した。

その学校では、色々新しい試みがなされていて、当時から英語は週に一度、アメリカ人の先生が来て教える授業もあった。その時の先生が、レーン先生だった。

少し慣れてきたら、思い出を話してみようか、と考えているうちに、先生は体調を崩して長く休まれて、そのまま退職されてしまい、残念ながら、親しくお話する機会は無かったけれど・・。

先日、その中学の同期会が東京で開かれ、欠席した私にも集合写真と共に、恩師の方々が並ぶ古い写真が、メールで送られてきた。

セピア色と呼ぶにふさわしいその写真の中央には、校長先生と並んで異国の老婦人がすわっていらしたのが、目をひいた。

レーン先生って、毅然とした学者タイプの方だったのだなあ・・。



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長いコメントありがとうございました。

シシーマニアさん

昔は、余りピアノを習っている子供はいませんでしたね。特に、地方都市の小学校では・・。
ピアニストになりたかった母親の意向で、その道を目指す人生を歩み始めた私なんかは、全くのはみ出し者で、放課後に友達と遊んだ記憶も殆どありません。

今になってみれば、この人生もそれなりに貴重な体験ができて、面白かったとは思っていますが。

因みに私の場合は、子供に音楽の道を進ませようとは、特に思いませんでした。

お嬢さんは、「絶対音感」をお持ちなのですね。現在は音楽から離れてしまわれたご様子ですが、ご本人の中には今も何らかの形で、残っているのだろうと思います。

親にとっては、子供に可能性を与えるのが自分の幸せなのだ、と昨今よく思います。少し、遅いですが・・。

このブログに参加して、色々な方の人生に触れるのが、私にはとても楽しい経験です。

又宜しくお願い致します。

2014/12/30 10:31:46

素敵な思い出の引き出しが沢山ありますね。

さん

私の、子供時代のピアノの思い出は、紙に書いた鍵盤と、学校にあった足こぎ式のオルガンでした。

本物のピアノを弾いてみたいな。それは夢でした。

つれあいも同じような体験がありました。

ゆえに子供に夢を託して、長女が4〜5歳の頃に、住宅ローンで苦しい中でピアノを購入、レッスンを始めました。

小学校の低学年では、どこの鍵盤を押しても何の音か理解できるようでした。親馬鹿で大喜びをしました。

天才かな!

ところが、娘が小学校の6年生の頃に、病に倒れ
命は助かりましたが、ピアノは断念せざるを得ませんでした。

私たち夫婦の夢は何処かへ消えてしまいました。

でもこの時私たち夫婦は喜びました。お医者様からから「脳腫瘍で、余命1年です」と宣告された娘は誤診で、二十数年経過した後も元気に暮らしています。

但し、病の後の娘はピアノに触ることもなく、昨年転居を機にピアノは処分しました。

ですから、シシーマニアさんのお話は、羨ましく上流社会とは、このようなものかと拝読いたしております。

ただの僻みと読み捨てて下さい。

2014/12/29 22:53:28

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