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悠々閑々に暮らす身辺雑記

『とおりゃんせの唄・発祥の地』川越・三芳野神社を訪ねる 

2014年12月24日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し

博物館を出て目指した場所は、『とおりゃんせの唄・発祥地』の三芳野神社です。

博物館前の信号を渡り、直進すると数分で右側が本丸御殿、左側奥が三芳野神社です。
 川越城本丸御殿と目と鼻の先にあった看板


看板の向うは社殿です。右に進み参道入り口から参拝する。
 三芳野神社の由緒

〜 川越城築城以前から当地にあったが、太田道真・太田道灌父子による川越城築城により城内の天神曲輪に位置することになった。
〜 大宮の氷川神社を勧請したとも、京都の北野神社を勧請したともいわれているが定かではない。三芳野という社名は在原業平の『伊勢物語』に出てくる「入間の郡三芳野の里」という地名が川越の旧地名であったことによる。
〜 現存する社殿は、寛永元年(1624年)川越藩主酒井忠勝が3代将軍徳川家光の命を受けて造営したもの
〜 再興された。翌寛永2年には、天海大僧正を導師として遷宮式が行われた。これ以後、喜多院、仙波東照宮とともに江戸幕府の直営社となった。
by wikipedia抜粋





祭神は素盞烏尊、奇稲田姫命。 菅原道真・誉田別尊を配祀する。



 童歌「とおりゃんせ」は三芳野神社の参道が舞台といわれる。
当社は川越城築城により天神曲輪に位置することになり「お城の天神さま」と呼ばれた。
城内にあることから一般の参詣ができなくなったのだが、信仰が篤いことから時間を区切って参詣することが認められた。
しかし、この天神さまにお参りするには川越城の南大手門より入り、田郭門を通り、富士見櫓を左手に見、さらに天神門をくぐり、東に向かう小道を進み、三芳野神社に直進する細道をとおってお参りしなければならなかった。
また、一般の参詣客に紛れて密偵が城内に入り込むことをさけるため、帰りの参詣客は警護の者によって厳しく調べられた。
そのことから「行きはよいよい、帰りは怖い……」と川越城内の子女の間で唄われるようになり、それが城下に流れ、武士や僧侶、町人たちによって江戸へ運ばれ、やがて全国へ広まって行ったものである。なお、参道は江戸時代より若干変化している。
by 川越市教育委員会


*童歌(わらべうた)は、こどもが遊びながらうたう歌で、いつのまにか伝えられ歌い継がれてきた歌です。


 『とおりゃんせの唄』

 

      通りゃんせ 通りゃんせ
      
      ここはどこの 細道じゃ
      
      天神さまの 細道じゃ
      
      ちっと通して 下しゃんせ
      
      御用のないもの 通しゃせぬ
      
      この子の七つの お祝いに
      
      お札を納めに まいります
      
      行きはよいよい 帰りはこわい
      
      こわいながらも
      
      通りゃんせ 通りゃんせ

二人で手をつなぎアーチを作り、歌が続いている間に残りの子がその下を通り抜け、歌が終わった時にアーチの下にいた子を捕まえる遊びです。

思い出しますね・・・。“素朴だった” “純朴だった” 幼き頃を・・・。


2014.12.23

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