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たかが一人、されど一人

幼馴染が逝ってしまった 

2014年10月10日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し

人にはDNAに組み込まれた寿命があるとのこと。余り深く知りたくないが、寿命が何処かで終わるのは逃れようがない。今朝故郷に在住で、小学校から高校まで一緒だった古い友人の訃報が届いた。暫く会ってはいなかったが、特に体調を崩しているとの噂も聞いていなかったのでびっくりしてしまった。しかし、70歳代半ばにもなれば彼岸に渡ることに不思議は無い。現在の平均年齢が80歳前後であっても、70数年前、生まれたての頃の平均寿命は恐らく60歳以下だったと思う。現在生きているのがむしろ目出度いことで、論理的には半数ぐらいは亡くなっていて当たり前かもしれない。実際は、このところ学生時代同期生の訃報がかなり増えてはいても、小中学校から大学まで押しなべても生存者が未だ75%くらいはいるように思う。このことをむしろ不思議に思う方が自然かもしれぬ。これからは先に逝った友人誘われて、続々と後に続き、何時か順番が巡ってくると考えると背筋が寒くもなるが、やむを得ないことなんだろう。それにしても、親しかった友人が亡くなった現実を思うのは寂しいことだ。幼い頃の思い出が次から次へと湧いてくる。身体が小さくて弱かった小生に比べ、立派な体格で運動神経も発達していた彼。古い商店で自宅の土間が広くてコンクリートが打ってあり、卓球台が置いてあったので、いつも大勢が集まっていた。志賀高原山麓の渋温泉に別荘があり、そこへも何回か泊りがけで連れて行ってもらった。小学生の頃だったろうか、パチンコ屋や射的屋で遊んだのが何故かばれて、学校で怒られたこともある。橇遊びや竹スキーを卒業して板のスキーを始めた頃になると、市内から大分上の小門ヶ原までよく登った。スキーを担いで登るのだが、多分2時間以上かかったかもしれない。小生は途中でバテテ、彼によく荷物を担いでもらったものだ。志賀高原の丸池スキー場に初めて行った時も一緒だった筈だ。高校に入ると、やはり彼に誘われて山岳部に入部した。しかし、ここでも毎日のトレーニングに顎をだして、3か月で退部してしまったが、彼は最後まで頑張って国体に出て優勝する程のリーダーに成長した。少なくとも成人する頃までは小生とは肉体的にも出来が違うと思っていたが、人間とは不思議なものだ。現代風に言えば、逝くにはまだ早いと言うことになるのかもしれぬ。しかし冷静に考えると、昔は70歳を過ぎた爺様なんてざらにはいなかったように思う。自分が後に続きたくないから、まだ早いと思うだけのことだろう。

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