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雑感日記

運勢についての雑感 

2014年05月10日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し



★人生、その人についている運と言うモノがある。
私自身は、『めちゃくちゃ運がよかった』と思っている。
人生80年も生きると、終わりに近づいていることは間違いないのだが、
81歳になった今も、その幸運は続いていて、多分、『私の運勢は良かった』と満足して一生を終るに違いないのである。
 
こんなのは考え方の問題で、『運が悪い』と思い出すとどんどん悪くなるし、『いい』と思っていると、どんどんよくなるようなものだと思っている。
そして、その幸運を運んでくれるのは、どうも周りの人たちのような気がしてならない。
自分で切り開いた掴んだモノではなくて、周りの人達がお膳立てをしてくれたのではないかと思っている。
 
            
 
何ごとも、ネアカに、太平楽に考えるから、ホントはそんなに運がいいのではないのかも知らぬが、当のご本人は最高に運がよかったと信じ込んでいるのである。
子供の時から、いろんなこと列挙してみると、ネクラに考えたら『めちゃ運が悪かった』のかも知れないのである。
 
●子供のころは朝鮮にいた。家庭は裕福極まると言っていいぐらいのものだったが、終戦で環境一変、着の身着のままで家の全財産を置いて1人1000円だけ持って引き揚げてきた。 未だ中学1年生だったが、大体のことは解っていて、そんな環境の大変化を結構楽しんでいた節もある。
●たまたま、伯父の知人の元川重の社長をされた砂野仁さんの息子さんが神戸1中に行っておられて、砂野さんの薦めで神戸1中に入学した。入学したといっても試験を受けたわけではナイ。なぜ入れたのか知らぬが、兎に角無試験で入れたのである。
●親父からは『お前は無試験で入れてやったのだから、ちゃんと勉強せい』と言われて中学2年生ぐらいまでは猛烈にに勉強した。その結果相当にいい成績で、これが一生の自信に繋がっている。
●中学3年生で男女共学になって、授業の内容が1年分ぐらい後戻り、高校に入学するときに、学区制が敷かれて、、明石高校に転校した。そしたらまた授業の内容はまた、1年以上後戻りしたが、野球部は名門明石で、ここからは野球一筋の学生生活が大学卒業するまで続いた。2年生の時は夏の甲子園にも出場出来た。
●高校に入学してた頃親父が脊髄カリエスで寝込んでしまって、その治療代に伯父は明石の上の丸の土地を1000坪以上も売って看病したのだが、高校3年の1月2日に親父は亡くなってしまった。『もう治療代が要らなくなったから大学に行け』と伯父に言われて、受験科目の少ない神戸商大を受けたら通ってしまった。親父がもう1ヶ月生きてたら大学には行ってないだろう。
●別に入りたくて入った大学でもないので、勉強は一切せず野球ばかりに打ち込んでいた。大学の2年の時に肺浸潤になったのだが、休まずに野球を続けていたら、肺結核になり、空洞まで出来てしまった。伯父も大学3年の時亡くなり、その葬儀の時に来られた砂野さんが、入れてやるといって下さったのだが、卒業の年は、めちゃ不景気で1年野球部の監督でもして来年受けに来いと仰るのである。
●大学の時は引き揚げ者の母子家庭と言うことで授業料免除で奨学金を貰ってたので、給料もらって大学に行ってたような状況だったのに、ゼミだけ残して監督してた1年間は授業料も払い、奨学金は貰えなかったので、この1年は大変だたのである。
●1年経った昭和32年は、神武景気でめでたく川航に入れて貰った。
 
ここまでの学生時代まで、運がいいと言えばいいのだが、『運が悪い』考えたら、めちゃ運が悪いのである。
もし、戦争がなかったら、別の人生になったかも知れぬが、そんなこと思ったこともないし、いろんな人が経験できないことが経験出来てよかったとホントにそう思っていた。
肺結核になって、ひょっとしたら直ぐ死ぬかも知れぬから、何か残しておこうかと日記を書きだしたのが20歳、80歳を過ぎても未だ生きているので、結果的に60年も続いているのである。
                
              
 
 
★昭和32年(1957)川崎航空機入社、会社の生活が始まる。
●会社では財産化課に配属されて償却計算に明け暮れた半年が過ぎたころから、当時アメリカ空軍がいてJet部門にだけあったIBMの器械を使っての償却計算のシステム創造に取り組んだ。IBMなどどこの会社も持っていなかったし、日本にIBM社がなかった時代で、完成まで2年ほど掛ったが、本社も岐阜工場も巻き込んで全社統一のシステムを創り上げた。私の仕組み造りの第1作である。
●このシステムが完成したころ、会社でも野球部に入っていて野球をしてたのだが、診療所の医者に空洞がバレテしまっていて、野球はダメと止められていたのを、ある日ユニホーム姿を見つかって、『君は菌が出てる』と療養所に放り込まれてしまうのである。空洞の手術などと脅かされたが、ちょうど1年の入院で空洞は消え失せて仕事復帰になるのである。
●古巣の財産課はIBMの償却計算を機械化したので人員が不要になっていて、たまたまスタートしたばかりの単車事業に転籍になって昭和36年末(1961)から私の単車人生がスタートした。会社自体が初めての仕事だから、教えて貰うようなことは何もなくて、好奇心旺盛な私の方が直ぐに上司よりも、情報も知識も豊富になってしまって、それ以降40年間、大体そんな調子で過ごせた会社生活だったのである。
●二輪事業と言うのが、また世界展開で、販売店をネットワーク化し、レースや遊びもある独特のユーザーたち相手の事業は、半ば遊びの事業展開なのである。販売会社は形の上では子会社だがレッキとした事業体であり、そこを担当すると言うことは経営者をやるということなのである。 30歳のころから退職するまでずっと経営者のオモシロさを堪能させて頂いた。
●そんなことで普通のサラリーマン生活とは全然異なる世界を歩いて、会社以外のいろんな人達と出会い、共感した人生の仲間を大勢造れたのが一番だと思っている。
 
 
★今の現役諸君などに比べて単車事業を担当した時期が圧倒的に運がよかったのである。
民需の二輪事業の販社経営の話になると、その殆どが受注産業の川重の社長さんよりも財務担当の重役さんよりも、間違いなく私の方が経験豊富で、大体こちらの言うことが殆ど通ってしまうのである。
決定権は勿論ないのだが、『古谷君がそう言うのなら、それでいきましょう』と言って頂くことが殆どだった。
 
             
 
そんな会社での生活を終えて、70歳以降の年金者生活が、これがまたオモシロいのである。
●パソコンに出会い、ネットに出会って、新しい人生が開けた。このパソコンも、娘婿が会社で一括購入したパソコンが余ったから、1台買ってくれと頼まれて始めたものなのである。
●今やっているNPO法人も三木市の職員さんから人が集まらないのでと、その人集めに協力して出席したNPO講習会で、突然NPO法人を立ち上げることを思い立って、ちょうど5年経って今がある。
●人に頼まれたら、まず断ったりはしないことにしている。人との関係は、貸し>借り にしておくことがMUST だと思っていて、そんな関係になってると、いろんな運を先方から運んで来てくれるのではないかと思っている。
●あと2日でNPO法人の理事長を退任するのだが、今現在、私の周りには最高にオモシロそうな大きな話がいっぱいなのである。これから半年、どんなことになるかは解らぬが、NPOの理事長の肩書がナイ方が、より自由により大きなことが出来るのではと思っている。
 
★ 自分の運勢は最高にいいのだと信じて、動くからまた『いい運』が転げこんでくるのだと思っている。
最近は手相の運命線がだんだん濃く真っすぐに伸びきっていて、この調子なら今からどんどん運が向いてくる、今からが始まりだ、などとホントにそんなことを思ったりする。
 
人生で最高のモノを身につけようと努力をしていることもある。
 ●ゴルフのスイングは今最高によくなった。
 ●体の柔軟性も今が人生最高である。  この二つは毎日努力している。20歳の時死ぬかと思ったが運よく生きている。この年になると健康が第1である。
 
今日もちょっと神戸に出かけて、人と会うことになっている。 またいい運を私のために運んでくれるかも知れないのである。
 
 
写真は全然関係ありません。飾りです。
 
 
 

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