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平成の虚無僧一路の日記

「屏風の虎」の話は明治になってから 

2014年05月09日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し



「一休とんち話」で、有名なのは「虎退治」。

将軍様に「この屏風の虎を捕えてみよ」と言われて、
「はい、お易い御用でございます。この一休が虎を捕らえて
ごらんにいれます。さぁどうぞ、虎を屏風から追い出して
ください」と。

この話のどこが、“とんち”なのか、面白いのか判らない。
そこで、「はい虎が絵になりましたので“虎絵”ました」と、
“おやじギャグ”にしてみました。(私のオリジナルです)

この話の将軍様は、金閣寺を建てた3代将軍「足利義満」と
一般には思われているが、義満は一休が生まれた時には、
将軍職を息子の義持に譲って関白太政大臣になっている。

この4代将軍義持が、一休 17歳の時、一休のもとを
訪れた。この時「義満」は すでに亡くなっている。

その頃、一休は「西金寺」という(名前は“金”がついて
派手だが)、荒れた貧乏寺にいた。『一休年譜』では
「西金寺」の「謙翁和尚」が、「本尊に金襴の袈裟をかけて
いるという噂を耳にした将軍が、その真偽を確かめるために
来た」と書かれているが、そんなことを糾すために、
将軍が貧乏寺に わざわざ来るだろうか。役人を遣わせば
いいこと。

『年譜』では、「一休は立ったまま将軍を出迎え、“あんかべぇ”を
して追い返した」とある。時の将軍が 御自ら訪ねてきて、一介の
小坊主に 門前払いで追い返された。ただごとではない。

私は、将軍「義持」は「後小松天皇の後の天皇後継者として
一休を迎えにきた」と考える。「義持」の父「義満」は
わが子で「義持」の母違いの弟の「義嗣」を次期天皇に
しようとしていた。
「義持」にしてみれば、弟が天皇になれば、弟にかしずかな
ければならない。絶対に許しがたいことだった。それで、
義持は父「義満」を暗殺し、「義満」が行った政策をすべて
反故にし、後小松帝の子である「一休」を天皇に迎えようと
して訪ねてきた。ところが「一休」はその気がなく、将軍を
追い返した。(次期天皇は弟が即位し「称光天皇」となる)。

さてさて、一休が17歳の小坊主ながら、将軍「義持」を
追い返したという事実から、将軍様をコケにする話が創られた。

但し、それは明治以降のこと。徳川幕府が滅んで、将軍の
権威が失墜してから生まれた話。江戸時代だったら到底
許されない。明治新政府が徳川将軍家を貶めたいという
意図があって生まれた話なのだ。

そこで「屏風の虎」だが、ここに登場する将軍は、
第5代将軍「義教」がふさわしいと、私は勝手に思っている。
「義教」は「義持・義嗣」のさらに母違いの弟。

一休30代の時の将軍。義教は、ささいなことで気に障ると、
即 死罪にするという恐怖政治を行った。世阿弥の子元雅は
殺され、世阿弥は突然、佐渡に遠島となっている。

“万人恐怖”と恐れられた将軍「義教」を誰が、いかにして
諌め静めるか、それを一休に問うたのだ。一休は「管領はじめ、
幕府の要人が将軍を追い出してくれれば、捕らえてみせる」と。

その結果、赤松満祐が、将軍「義教」を室町御所から自邸に招き、
祝宴のさ中に、義教を殺した。まさに「虎」である将軍を
御所から追い出して 殺したのだ。「屏風の虎」の話を、義教の
暗殺とからめれば いっそうリアルな話になるではないか。


「尺八と一休語りの虚無僧一路」のホームページも見てください。

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