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カワサキ単車物語50年  その8  単車事業第2期の始まり 

2013年05月13日 外部ブログ記事
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★1965年から 1975年まで、
それまでの国内市場、実用車のカワサキから、アメリカ市場、中大型スポーツ車のカワサキに脱皮し、大いに業容を伸ばした10年間だったのである。
 
この10年間は、カワサキの単車事業の第1期の『カワサキの躍進時代』と言ってもいいのだろう。
アメリカ市場では、ヤマハを抜いてシェア2位を確保したり、国内市場に於いても中大型スポーツ車のスポーツ車中心の販売に合わせて新しい二輪専門の販売網『特約店制度』の全国展開が実現した。1972に発売されたZ1はアメリカ市場のみならず、世界的に好調で、これをベースにヨーロッパ市場への進出もスタートしたのである。
業容の拡大に伴って、単車事業の経営内容も飛躍的に改善されて、この間3社合併して、川崎重工業となったのだが、その川重の中でも非常に大きな影響力を持つ事業部に成長していたのである。
 
★私自身のことで言うと、1965年にカワサキオートバイ販売に出向し、広告宣伝、ファクトリーレーシングチーム、東北、北海道の代理店営業、大阪、東京、名古屋地区の直営部担当、さらには全国的な特約店展開などなど、販売第1線での初めての業務を経験することが出来たのである。
そして、1975年(昭和50年)の10月、カワサキオートバイ販売への10年間の出向期間を終えて、川崎重工業 発動機事業本部 企画室、企画グループに異動したのである。
出向した10年前は、川崎航空機工業だったのだが、1969年に3社合併があり、復職時には川崎重工業となっていた。
 10年ぶりに戻った当時の事業本部は、、事業規模も大きくなり、合併当時と比べると川崎重工業の中でもそれなりの事業規模となり、川重そのものの経営にも大きな影響を与える経営環境になっていた。
過去10年間事業を引っ張ってきたアメリカ市場にもやや陰りが見え、今後の事業展開のコンセプトを如何に設定すべきか、そんな検討に迫られていたのである。
二輪事業は、川重の他の事業部のような受注産業ではなくて、自らの意思で商品開発を行い、世界のどの市場にどのように展開するのかは、全くの自由なのである。そういう意味では将来の姿をどう描くかは、白紙に絵を描くように自由なのである。
アメリカ市場中心の大型車中心の基本方針をどのように修正し、新しい長期計画を組むのか、そんな時期に私自身は企画室の企画グループ、すなわちその直接の長期計画を担当することになったのである。
当時の発動機事業本部(発本)の最高責任者は吉田専務で、塚本事業本部長、青野副本部長、そして堀川企画室長と言うトップ陣で、吉田専務、青野副本部長、堀川室長は旧川崎重工出身の方で、この布陣を見ても、如何に全社的に重要な地位にあったかが解るのである。
過去10年間は、一言で言えば 『アメリカ市場がカワサキを引っ張った』=『アメリカの責任者浜脇洋二さんがカワサキを引っ張った』 そんな時期だと言っていい。アメリカのKMCは、未だ浜脇洋二さんが社長だったが、厳しい経営環境にあって、従来のように単車事業部全体をリードするような状況ではなかったのである。
 
★1975年10月企画部企画グループに復職した時には、既に『CMC』 と称するコンパクトな小型車を想定し、超効率的な生産方式を採用し、コストを武器に大量生産を目論む試案が、吉田専務と生産部門の田中秋夫部長との間で進められていたのである。
安い車さえ創れば、幾らでも売れると言う発想で、自動生産装置を駆使して無人で24時間造り続けるという、まさに生産指向的な発想なのだが、トップの吉田専務が後ろ盾のプロジェクトなので、これから7年間ほど単車事業部の中に存在したのである。
当然、それに反対する人たちもいて、吉田専務が旗を振ってもなかなか首を縦に振らないので、上の言ったことには、100%従う受注部門育ちの吉田さんは、
『事業部はは言うことを聞かないので、国内のカワ販と組んでやる』などと本気で仰ったりしていたのである。
一番の反対者が、企画室長の堀川運平さんだったのもオモシロイ。
こんな『小型車主流の事業部を目指す』と言うCMCプロジェクトが何年間も事業部の中に存在したことなど、少なくとも外部の方は初耳だと思う。
 
そんなややこしい時期に企画に戻ってきて、長期計画を創ることが私の企画へ戻っての初めての仕事だったのである。
 
 
★ トップの吉田専務は、『画期的な生産方式で低コストの小型車を造れば必ず大量販売は実現する』と言う発想が基本的で、それに製造部門が乗って主たる事業部の流れは、そんな方向だったのである。
具体的には生産方式の内製化で画期的なコストダウンを図ると言う『100億円プロジェクト』だとか、1980年には70万台の生産販売規模にするなどの、勇ましい方向が主流で進められて来ていたのである。
このままの計画ではダメだと思ったが、10月に異動してきた直後だったし、既に正規に認められている専務直轄のプロジェクトをひっくり返すわけにも行かず、何となくそんな方向で纏めた長期事業計画を年内に纏めて、経営会議で一応認めらたのである。
 

 
★川重の企画に戻った1975年10月から、事業の推移を示す資料を1996年ぐらいまでの20年間分を、個人的に、今でも私は持っている。
このころは上場企業でもまだ、ファイリングシステムも、勿論パソコンなどない時代だから、稟議書や決算書などの正規の書類以外は、会社にも残っていないだろうと思う。
 写真の資料は、75年10月から78年までの3年間だが、月別にも詳細な資料が残っていて、カワサキの方たちも、多分ご存じない資料が殆どなのである。
このような詳しい資料が手元に残っているので、全てを開示する訳には行かないが、
今後、『カワサキ単車物語50年』は、出来るだけ忠実にカワサキの単車事業の推移を振り返ってみることにしたいと思っている。
(このブログを川崎重工業の現役の諸君も、ご覧になっていると思うが、もしご所望なら15冊ほどあるこんなファイルをお貸してもいいと思っている。激動の20年間、後半は国内市場だが、カワサキの単車事業部の本流のデータ―であることは間違いないのである。)
 
 ちょっと脱線したが、
企画グループが創った長期計画が認められた直後に、堀川運平企画室長自らが、自筆で書かれた事業計画を経営会議に提出されたのである。
こんな事業計画があったことなど、殆どの方はご存じないし、ましてやその原本など、多分どこにも存在しないだろうと思う。
 
 
 
この内容を開示する訳には行かないが、
吉田専務の拡大生産基調とは真っ向から反対する方向で纏められている。
ご自身が管轄する企画部門の部下が纏めた長期計画は一応認めたうえでの個人的な意見と断っての提出で、如何にも堀川さんらしいのである。
その内容は
● 常に過大な販売目標を立て、それに見合った技術、生産、販売、人員増加固定投資の先行が問題で、計画と実績の乖離が甚だしい。
● アメリカKMCに対しても、極めて批判的な内容になっている。
少々極端ではあるが、方向としては当たっている と当時そう思ったし、直接の上司の本音が解って、その後の企画方針を立てるのに大いに役立ったのである。
 
 
★この事件があったのが異動後3カ月の年末だったのだが、アメリカ中心の市場戦略から、ヨーロッパ市場へもUK 、ドイツを中心に進出が始まっていた。
正規で決まっている長計には、小型車分野への進出も言われていたので、その市場戦略として、開発途上国市場への調査と展開を企図したのである。
これは、誰もやらなかったので自ら手を挙げて計画を纏めたのである。
 
それは吉田専務の仰る小型車戦略ではあるのだが、開発途上国市場と言うことで、
進められようとしている生産指向的な明石での大量工場生産とは基本的に異なるコンセプトなのである。
 
なぜ、開発途上国市場なのか?
● 開発途上国市場は確かに小型車ではあるが、125ccが中心で、国内市場のような50ccモペットではない。
● 基本的に完成車輸入は認めておらず、現地でのKD生産方式なので、明石での完成車生産とはならない。
● 当時は未だCKDで現地での生産部品もごく僅かで、生産機種の数も数種、現地へのワ―キングパーミットも人数制限があり、ホンダ、ヤマハ、スズキなど小型車が得意のメーカー相手なのだが、競争制限があるので、何とか戦えるのではないか?
● 多分将来は発展する市場だろうし、CMC展開から幾らかでも目先を変えられる時間稼ぎになるとも思ったのである。
こんなことは、今初めて公にしているのだが、堀川さんが反対ということが解ったので、少なくとも企画室長は応援をしてくれるという仮説に立っての旗揚げだったのである。
 
 
★この時期は、ホントにややこし時期ではあった。
この10年間この事業を引っ張ってきたKMCの浜脇洋二さんは、あくまでもアメリカ中心の先進国への中大型車中心の主張で、小型車には勿論反対、開発途上国市場への進出も経営資源の分散になると、反対の方向であった。
当時の企画室のメンバーは、堀川室長の下に高橋宏部長がいて、4人の課長のグループ制が敷かれていた。企画班が私で事業計画、長計など部内の纏めを、田崎雅元さんがアメリカKMC、特にリンカーン工場関係を担当。田付さんが発動機関係を、そして種子島経さんがアメリカから戻っていて、次にヨーロッパにと待機中だったのである。
技術総括部長が高橋鉄郎さん、営業本部長は矢野昭典さんでヨーロッパと開発途上国を担当されていた。
当時の直販会社としては国内のカワ販とアメリカのKMCは別格扱いで、企画室が直に繋がっていたそんな時期であった。
アメリカは事業部の非常に大きな部分だったので事業本部長以下、トップレベルでの対応であったと言っていい。
KMCに関しては、オイルショック以来、市場としては陰りも見えたが、カワサキはZ1の発売でそんなに大きな影響もなかったのだが、リンカーン工場でのスノ―モービル事業などが『雪不足』などもあって、商品はよかったのだが、季節商品の在庫が出来て、こちらが大きく足を引っ張ったのである。この担当窓口が田崎さんで、いろいろあって大変だったのを覚えている。
 
 
このような状況から始まる1976年からの10年間は、カワサキにとってまさに『激動の10年間』だったのである。
そんな荒波の中の、ど真ん中に坐っていたような10年間でもあったのである。
 
 
 
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