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雑感日記

カワサキ単車物語50年  その3  地方代理店、アメリカ進出スタートの時代 

2013年04月12日 外部ブログ記事
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★戦後二輪車産業は、自転車にエンジンを付けたりする形のモノも含め、100社以上のメーカーが乱立する時代があった。カワサキもメイハツ工業にエンジンを提供していた時代もあったのである。
そんな戦後の日本の二輪車産業を個人の方が纏めておられる文献がある。
 
その表題は意味不明のようなところもあるが、内容は極めてきっちりと纏められている。
そんな中から現在は4社になっている二輪企業についてにグラフと記述がある。1950年当時は80を超えているのだが、その後10年で激減したのである。その記述の幾つかをご紹介したい。

 1950年代に入ると、二輪車産業へ参入する企業が急速に増加し、ピーク時の1953年に80数社となっていますが、実際には200社以上のメーカーが存在していたとも言われています。
1950年代後半から1960年代前半にかけては、多くの企業が二輪車生産から退出していきました。直接の原因は販売不振ですが、退出にはいくつかのパターンがあるように思えます。
? 他企業への吸収合併陸王内燃機、目黒製作所、新明和興業、北川自動車工業、昌和製作所、板垣
? 本業へ集中 宮田製作所、ブリヂストンタイヤ、新三菱重工業、富士重工業、スミタ発動機、東京発動機。
?その他 廃業 丸正自動車製造ほか多数、
日本の二輪車産業はホンダ、ヤマハ、スズキ、カワサキの四社に寡占化し、世界一になります。それは、前述のように一時期、数百社といわれるメーカーが参入し、競争をした結果、技術力が急速に向上したからです。成功したのはすべて戦後に二輪車を手がけたメーカーです。戦前からの二輪車メーカーは戦後の競争に全く生き残れませんでした。これは、戦前からのメーカーは古い技術にこだわりすぎて技術革新を怠ったからだとする見方もあります。
 
★このように分析されているのだが、確かにそんな時代であった。
撤退して行ったメーカーの中に三菱重工業始め大企業も含まれている。本業に集中と言えば恰好いいが、みんな浜松のホンダ、鈴木、ヤマハの3社との競争に敗れ、駆逐されてしまったのである。
そんな中でなぜ、カワサキだけが生き残ったのか?
その理由は単純ではないと思うが、私なりに次の二つだと思っている。
● 一つは、モペットなどの国内での小型車種での競争を避けて、市場をアメリカを中心とする海外に求め、中大型スポーツ車に集中するなど、事業形態の差別化を徹底したこと。
● もう一つは、国内の営業の実戦部隊がメイハツ、メグロなど、川崎航空機のメーカー出身者でなかったこと、これは海外でも全く同じで、実際の販売を担当したのは、現地の人で日本人ではなかったこと。
二輪事業の販売第1線で、ホンダ、スズキ、ヤマハの人たちに対応するには、とてもメーカー育ちの体質では無理だと、ホントにそう実感したのである。これは、3年間ファクトリーのレースの世界を経験し、そのあと東北で4年間代理店営業を経験した私の感覚からの感想である。川重の課長任用論文に、カワサキが生き残れたのは、メーカーの人間が第1線の営業をやらなかったからだ と書いて渋い顔をされたのを覚えている。
二輪業界をリードしたのは間違いなくホンダであり、本田宗一郎さんだったのである。そんな二輪業界の雰囲気は独特であった。そこには大企業の体質など微塵もなかったように思う。三菱などの大企業はそんな体質になりきれなかったのはよく解る。川崎航空機は確かに大きな企業であったが、戦後の長い中断があったりして、会社全体が若かったし、特に新しい事業を担当したメンバーたちが実質的に若かったので、何でも躊躇なく取り入れることが出来たのかも知れない。
 
★兎に角、上のグラフにある様に数年の間に、メーカーの数は激減してしまって、最後にはブリジストンも撤退してホンダ、スズキ、ヤマハの浜松勢とカワサキの4社だけになってしまいのである。
昭和30年代のカワサキは、二輪車の市場も日本国内一国だけみたいなものであった。
その当時の国内の販売方式は、現在とは全く異なる『代理店方式』で、問屋さんが地方にあってその下に販売店が付いているそんなスタイルだったのである。
カワサキの場合は、川崎航空機が直接その代理店とつながったのではなくて、もう一段階『カワサキ自動車販売』という販社が存在し、そこには旧メイハツ、旧メグロの営業の人がいて、地方の代理店を管轄しているというスタイルであった。そのカワサキ自販が東京の神田岩本町にあったのだが、多分そこを知っている人は川崎航空機籍では東京の加茂さんと私の二人だけになってしまったのではないかと思っている。その後川崎航空機の東京支社の中に移ったのである。
当時のことで特筆すべきことは、それら地方の代理店の扱いはなかなか大変だったのである。所謂バイクを売って頂いているお客様で、今のようにメーカーの下に販社があるのではなかったのである。代理店の工場見学などで、代理店の社長さんからの技術屋さんへのクレームや問題提起なども非常に厳しくて、当時の山田技術部長など、技術屋さんの対応は大変だったのである。中でも鹿児島の金谷さんだとか、新潟の鍋谷さんなどは有名で、めちゃくちゃ厳しかったことをよく覚えている。
これがいわゆる『自前(自己資本)の代理店時代』のことで、その後各メーカーが台数競争に入り、販売台数が増加して行くとともに、多くの台数の販売を目論んだ代理店は、その回転資金の負担に耐え切れず、メーカーの資金援助から、だんだんと資金参加そして直営化への道筋を歩むことになるのである。
カワサキ陣営の中で言うと、、内容のいい確りとした代理店は、そんな台数を求めるメーカーの姿勢には追随せず、二輪業界から撤退して行った代理店も多かったのである。どちらかと言うとメグロ系の総じて内容の良かった店は撤退していく方向であったのかも知れない。
 
★台数を売るとどうして資金負担が生じるのか?
これはその時代の販売形態に原因があって、当時国内で売れている単車は圧倒的にモペットであり、その販売形態も何万店もあった自転車屋さんに委託車を預けそれを売って貰うと手数料を支払う委託販売方式だったのである。従って委託車は第1線の自転車屋さんの店頭にはあるのだが、実質的にその在庫負担は代理店が背負っていたのである。数を売るために委託店を増やしそれに比例して委託車輛もどんどん増えて行くのである。
さらに、末端のお客さんからの支払いが、田舎などでは盆払いや年末払いなど私制手形などまであって、商品が売れてもなかなかお金にはならないそんな資金がべらぼうに要るシステムだったのである。
そんなこともあって資金に詰まった代理店はメーカーからの融資を受けたりしている内に自然に資本参加の方向になっていったのである。
 
★そんな時代、昭和41年(1966)までは、私自身は広告宣伝とファクトリーレースの担当で、一番代理店が厳しかった時代は、ヨコから眺めているだけで、殆ど代理店には関係なくレースに没頭していたのである。ようやく国内だけではなくて海外、特にアメリカでの市場開拓が始まった時期で、車で言えばA1が世に出て、1966年のFisco での日本GPには、カワサキはGP初出場を果たしたし、ジュニアロードレースに金谷秀夫がA1のロードマシンで出場した時期である。モトクロスではF21Mが松尾勇さんの手によって世に出た時期でもあった。
 

左から杉沼浩、アランマセック、浜脇洋二、岩城良三さん、右二人は解らない。
 
昭和41年には、カワサキ自販の名称は『カワサキオートバイ販売』に改称されたりしたし、アメリカ市場は浜脇洋二さん以下の新市場の開拓時期で田崎雅元さんも7人の侍の一人として海を渡っていて、シカゴにAmerican Kawasaki が設立されたりした。内容は部品販売会社であったはずである。そしてその部品担当で黒田君、会社設立や財務担当で本社から久保君などがアメリカチームに加わったりしたのだろう。アランマセックが加わったのもこの年だし、トーハツから杉沼浩さん(後川重ーMFJ常務理事)が7人の侍に加わったのもこの時期なのだと思う。
ただカワサキのマシンは2サイクル社が主力で、W1も持っていったが、アメリカの高速道路には耐えきれなかったそうである。『このW1をアメリカのハイウエイで始めて乗った日本人は私だ』が、後川崎重工の社長も務めた田崎雅元さんの自慢なのである。確かに彼はアメリカに渡る前から、レースチームの一員だったし、日本でもバイクに乗っていて、ちゃんとバイクには乗れたのである。『7人の侍でバイクに乗れたのも私だけだ』などとも言っていたが、ホントかも知れない。
 
そんな若いころの田崎雅元さん(左) と浜脇洋二さん  珍しい2ショットである。
 
★昭和41年までは、アメリカ市場もスタートしたばかりなのである。日本は地方代理店の時代であった。
昭和39年カワサキの単車事業の再建が川崎航空機として決定されてから、のこの3年間でカワサキの単車事業の再建の基盤が出来た時期と言えるのだろう。
二輪事業について殆ど何も知らなかった人たちが、この3年間でいろんな経験を積んでいろんな知識も吸収していき何となく二輪事業が解りかけてきたそんな時期だったのかもしれない。
開発部門は、B8やモペットなどの実用車から、初めてA1と言う中型スポーツ車を開発できるまでになったし、いち早く手を付けたレースの世界、特にモトクロスの分野ではF21Mを擁して赤タンクのカワサキの名を確固なものにしたし、ロードレースのGPの分野にも進出したのである。
国内市場はシェア的にはまだまだではあったが、多くの人たちが販売第1線を経験したし、カワサキオートバイ販売は自らの定期採用者第1期生を取ったのがこの年からなのである。生産サイドも、品質保証も、形が整って単車事業展開の形が出来た3年間ではなかったかと思うのである。
 
そして、なぜか不思議なほど、これらを担当した人たちが『よく言えばユニーク』はっきり言うと『ちょっと変わっていた人たち』ばかりが多かったのではなかろうか?
これが、現在のカワサキブランドのユニークさの根源であるのではと思ったりする。
総大将の岩城良三自体がユニークだったし私たちのすぐ上の先輩たちも、それに続いた後輩たちも『ちょっと変わった人たちの集団』であったような気がするのである。
 
 
 
★そして、昭和42年(1967)頃から、カワサキの単車再建の第2期に入っていくことになるのである。
単車再建のスタートとして川航本社が開発費として予算化してくれていた120百万の膨大な広告宣伝費も昭和41年度で終わり、私自身は当時の国内最大市場であった東北地方の管轄拠点としての仙台事務所新設の命を受けて仙台に異動になったのである。
当時は地方代理店に一部メーカーが資本参加をしだした微妙な時期だったのである。東北6県にも各県に自前もしくは一部資本参加した代理店があって、その代理店の経営を支援する拠点としての機能を持つ仙台事務所を創ることが任務だったのだが、『仙台に事務所を創れ』だけが会社の命令で、それ以外の指示は一切なく、『お前が考えてやれ』と言うこと以外、会社の上司も具体的な知恵はなかったのだと思う。
大体、仙台事務所が出来た経緯は、当時の岩城常務が東北に行かれた時の代理店会議で『仙台に出先を創ってくれ』と言う代理店側の要望に『直ぐ創る』と即答されたらしいのである。その話は直ぐ伝わってきて、その時岩城さんのお供をしていた販売促進課の八木さんが行くものだとみんな思っていたのに、突然の指示だったのである。岩城常務がわざわざ私の席まで来られて、『ご苦労だが頼む』と一言仰っただけなのである。
この時のことは私の自分史、昭和42年度-1にも詳しく書いているが、特に昭和42年度ー2に具体的に詳しく書いてあるので読んでみて欲しい。
 
★私にとっては初めての場所の変わる異動だったのだが、経験がないので異動とはこんなものかとも思ったが、全てのことを一から全て自分の想うように、自分で決めてやったのである。
日本であったから、言葉も通じるし未だマシだったのかも知れない。
当時も、それ以降も海外市場に進出するときなどは、全て同じような状況だったに違いない。会社も上の人たちもコンセプトは言えても、具体的な指示などは、前例がないのだから何にも指示出来ないのは当然なのである。
当時はカワサキに限らず、二輪メーカーはみんなこんな状況だったのだと思う。海外などでも特に二輪メーカーのリーダーホンダは、商社を使ってやる『輸出』ではなくて、自らが現地に新しく事業を立ち上げてやる『事業展開方式』であったし、当時の通産省などの国の支援など一切受けない形での『海外進出』だったのである。このあたりが、国の手厚い保護で海外に出た四輪とは全く異なっていると思う。
国内市場においても、メーカーの籍の人がこのような地方拠点の責任者で出たのは川崎航空機としては九州事務所と仙台事務所の2か所だけで、九州は当時の課長職の矢野さんがおやりになったのだが、仙台事務所は未だ係長の分才でそれこそ百戦錬磨の地方代理店の社長さんがたを相手の営業初経験だったのである。
 
私自身にとっては、広告代理店の本社の企画の人たちと付き合った広告宣伝とファクトリーレースを担当した4年間と、東北の4年間代理店の社長さんたちから教えて頂いて身についたノウハウ、ソフトや体質が、今もなお生きているのだと思える貴重は8年間だったのである。
 
 
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