つれづれに

雑草 

2012年07月30日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し

今後のことは分からないが
私は雑草だから強く生きられると
「歌に私は泣くだらう」を読んで思った。

著者の永田和宏は大学教授にして歌人
妻河野裕子は戦後を代表する歌人
子供二人も歌人で東大の研究員だったり
なんだったりで、実に恵まれた穏やかな
家庭のはずだった。が、河野裕子ががんを病み
元々不眠、肩こりで睡眠薬を常用していたが
病気で鬱になり家族の葛藤が始まる。

薬のせいと体の不調のせいでしばしば家族にあたりちらし
時には凶暴にもなる。

夫は疲れ果てこのまま自分が死んでしまいたいほど
追い詰められるのだが

ほれ 他人のことだからなんとでも言える。

私だったら自分が病気だからと言って夫に
あたり散らすことはできない。

あんなに家族に優しくされて何が不服なのっと
こうなる。

天才歌人の繊細な心の内など私には知るべくもないが
私などは自分で元気でいなければ、だれも救いの手を
差し伸べてはくれない。

いえいえそんなことはなく夫をはじめいろいろな人に
助けられているのだが、河野家ほどではないということ。

手術した胸のあたりが寒くて痛かったり、肩が痛かったりで
私も何年もあちこちの病院、クリニックに通った所は
河野裕子と同じだが結局はなおっていない。

さらに最近は私は手足の痛みも加わって
著者が言うようにたまに私の痛みを聴いて
「心に寄り添ってくれる」人さえいればいいと思う。

直せない病気、取れない痛みもある。

私がたまに「私も鬱になる」なんて歌を詠んでも
あははと笑われてしまう。

痛いと言っても痛いように見えないという。

これって損なの?
でも鬱は立派な病気だから病気の人の言動と理解しなくては
いけない。

私は雑草だから真正の鬱にはならない?

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