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雑感日記

鈴鹿50周年と当時のカワサキ(第2回) 

2012年06月16日 外部ブログ記事
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★1966年(昭和41年)は、広告宣伝課最後の年、3年間ものレースの直接担当の最後の年だったのである。
広告宣伝課と言うよりもレースに明け暮れた1年であったし忘れられない出来事も多かった。
FISCOでの日本グランプリが終わり、続いてあった東京モーターショーが終わってホッとする間もなく、東北6県の仙台事務所を設立するために、仙台への異動を言われたのである。
広告宣伝の時もそうだったが、前任者は誰も居なくて、白紙に勝手に絵が描けたのである。
 
この年のレースの出来ごとまず列記してみる。
如何にいろいろあったかお解り頂けると思う。
 
★1966年のカワサキのレースの出来事(まず項目だけ並べてみる)
1月5日   藤井敏雄君明石に現れる。 カワサキと契約、これはGP関連だったので技術部が決めたようである。
1月10日  この年からカワサキコンバットの梅津、岡部、星野 明石在住とする。  この時期ファクトリーライダー全員広告宣伝課の嘱託扱い
1月17日  FISCOの第1コーナーが危険という指摘があり、四輪で現地走行、須走り落としにビックリした。
1月19日  藤井敏雄とGPマシンの貸与契約を結ぶ。
2月12日  鈴鹿でGPマシンテスト  ライダー藤井、三橋、金谷  タイム2分48秒〜2分52秒
2月27日  山本隆結婚  その仲人をする(初仲人34才) 大変だった。
3月     鈴鹿で練習中に三橋実転倒、腰骨骨折入院
4月3日   MFJ第3回全日本モトクロス 高松   セニァ、ジュニア優勝なし、アマで木村夏也(大阪赤タンク会)が優勝
4月    ライダー関係、いろいろ大変だった。 三橋、清原、星野、金谷 みんな元気過ぎた?
5月     藤井敏雄  西ドイツGP 出場
6月23日  MFJ 運営委員会 ホンダFISCOでの日本GP 不参加を表明
7月11日  250ccモトクロスマシンF21M製作、その第1号機完成、エンジンは技術部車体他モトクロス職場で松尾勇さん手作り
7月20日  MCFAJ 全日本青森岩木山にF21M7台デビュー(三橋、安良岡、山本、歳森、梅津、岡部、星野)F21M時代の始まり
8月15日  A1R の製作決定
8月27日   藤井敏雄 マン島プラクティスで転倒、死亡の連絡通知(FISCOでマシンテスト中、そのまま東京赤羽の藤井宅訪問)
9月1日     遺体羽田着(マン島では大槻さんが、羽田は私が)  9月3日 告別式
9月5日   日本GP体制決定   ライダーはデグナ―との契約を軸に  総監督 中村 GP 大槻  JR 安藤  マネージャー 古谷  総責任者は技術部山田部長
9月18日  FISCO JR ロードレースで初めてカワサキ優勝、  90cc 村上、歳森、金谷   250cc  金谷、三橋
9月19日  谷口尚巳 と契約
9月23日  デグナ―との契約についてホンダ前川さん(MFJ 運営委員)に教えてもらいに鈴鹿に
9月26日  デグナ―来社、契約
9月28日  FISCOで練習中チェン切れで転倒、入院(本件別途) 
10月16日  日本GP FISCO      GPは7位  JR 250は ガリーニクソン、金谷が2位
10月21日  仙台異動の内示
10月23日  MCFAJ 全日本モトクロス  250ノ―ビス  星野  セニァ 山本   オープン  山本  これが最後のレースだったが完勝
11月        翌年度ライダー契約   山本、歳森、岡部、星野、金谷
12月      東北、仙台新事務所関連の検討
 
 
★以上の通りで、広告宣伝課の仕事をしなかったわけではないが、1年中レース関係のことで多忙を極めたのである。
 
この年はカワサキがレースに本格的に進出して3年目で、
モトクロスについては、F21Mのデビューもあったし、ライダーも育ってカワサキは確固たる地位を築いたと言えよう。
ライダーも山本隆、歳森康師、梅津次郎、岡部能夫と揃って万全であったし、ノ―ビスクラスも星野一義が飛び抜けたはいたがそのほかにも木村、西など多士済々であった。
当時はまだ、アメリカ市場もスタートしたばかりで、ホンダ、ヤマハ、スズキに勝てるものは、何一つなかったのである。
『レースでは一番』になるという目標は、完全に達成できたと言ってもいい。
 
ロードレースについても、GPはまだまだ実力差はあったが、
JRのレベルでは90ccも互角に戦ったし、250ccではA1Rを開発して、日本国内では圧倒的な優位を誇ったのである。日本GPの時にはヤマハがアメリカのプロ、ガリーニクソンを連れてきて、金谷と壮絶なバトルを演じ両者が最高ラップを記録するなど、当時はまだ新人であった金谷秀夫が頭角を現していたのである。
当時の技術部のレース担当が、大槻、安藤さんと言う、誠に個性豊かな、殆どの人たちが怖がる方だったのがよかったのだと思う。
マシン開発についても、レース運営についても常に前向きのエンジニアであった。
カワサキが後世に誇れるマシン、F21Mのエンジンの開発者は安藤さんである。そしてカワサキZ1の開発が大槻さんなのである。お二人とは私は非常にウマが合ってレースを離れてからもずっといろいろお世話になった。レース仲間であったこともあって、何でも本音でモノが言えたのである。
F21Mが連戦連勝で、この年のモーターショーも私の担当だったので、F21Mを出展すると言ったときに、安藤さんが言った言葉が忘れられないのである。
『それは止めてくれるか。 125ccのエンジンを150ccにボアアップしてそれをべ―スにさらに238ccにして、レースエンジンで持っているということは、如何に市販車のエンジンが過剰品質かということになるので、技術者としてはカッコ悪い』と仰るのである。なるほどとも思ったが『そんなの大丈夫ですよ』と押しきってしまったのである。
安藤さんらいいなと思ったが、そんな安藤さんも今は故人となられた。
もう一人の大槻さんとは今も、Z1会などでご一緒している。先日Facebookにお誘いしたら、稲村さんと一緒に参加していただいた。
   
 
★この年がカワサキのGPの実質的な初年度になるのだが、
あまり語られてはいないが、カワサキのレースのホントの推進者は 兵庫メグロの故西海義治社長ではなかろうか、と私は思っている。
 
 
 
 青野ケ原のレースも西海さんが居なかったら多分開催などされなかったと思うし、
兵庫メグロにいた松尾勇さんが川崎航空機に入らなかったら、カワサキにレースの分かる人など皆無だったのである。
GPレースもそのマシン開発についても、当時の山田技術部長(後川重副社長)が熱心で藤井敏雄やデグナ―などの交渉も、山田さんが動かれたのだと思うが、それを動かしていたのは西海さんだと思う。ご自身が元オートレースのライダーであったこともあって当時の片山義美さんなども西海さんには、一目も二目も置いていた。カワサキのGPマシン開発の段階でも、西海さんや、片山義美の意見などが大いに生かされたのである。
私はヨコで聞いていただけだが、神戸一中、一高、東大航空機の秀才の山田さんでも、GPレーサーのことについては、小学生の知識のような感じであった。そんなやりとりの中でカワサキのGPは、開発されていったのである。
たまたま中学の後輩だということで、山田さんには特に可愛がっていただいた。デグナ―が生死の境をさまよった時も、いろいろと担当の大学の先生のところなど走りまわったのも山田さんで、私はその運転手をしていた。そして山田さんが必ず相談されたのが、西海義治さんだったのである。
西海さんが亡くなって、その兵庫メグロを引き継いで頑張っているのは、カワサキの真打ちを自称する平井稔男さんであることも何かのご縁である。
 
★この年、ライダーの事故や怪我などが続いた。
なかでも藤井敏雄のマン島の事故死は私のレース3年間で最も悲しい出来事であった。
スズキの中野さんが編集されている『日本モーターサイクルの夜明け』の中に『藤井敏雄君の想い出』として記述させて頂いている。
 
デグナ―がカワサキと契約があったことはご存じない方も多い。
その契約の時点から分からぬことばかりでたいへんだったが、転倒事故で生死の境をさまよった時は本当に大変だったのである。
デグナ―のことについても『カワサキのデグナ―』と言うブログが紹介されている。
 
こんな事故が二つ続いた直ぐ後の日本GPで、歳森康師が転倒し鎖骨骨折した。
思わず『よかったな』と言ったその時は、ホントに本音だったのである。
三橋実の入院に始まって1年間ライダの事故が続いた年であった。
 
 
★当時のレースチーム体制は、そのノウハウが社内に蓄積されていないこともあって、営業、技術、生産の3部門の2人3脚の協働体制で、ライダー契約並びにレース運営費は、本社開発費の広告宣伝費で賄われていたたのである。
●山田部長統括の技術』部門は、エンジン開発を主に担当であった。
堀江、渡辺、大槻、安藤、水町さんなど、GPをやりだしてからは多くの陣容に広がっていった。
● レース職場を持っていて、マシンの完成は松尾、福田、藤原というメカニックトリオでスタートし、その後吉田、吉田などの若手が参加した。
このレース職場の統括は高橋鉄郎、田崎雅元さんの後川重の社長、副社長コンビなのである。それに生産技術の中村治道さんが川崎さんなどを従えて初期のカワサキレースグループを統括していたように思う。
●営業部門は、山田さんと同格の部長であった苧野豊明さんが直接の私の上司で私のほかに川合寿一、大西健治のお二人がレース現場を支えてくれたのである
●そしてライダーは、GPライダーを除いては全て広告宣伝課所属の嘱託課員という待遇で
関西は神戸木の実の歳森康師、山本隆、金谷秀夫のほか村上、従野など、  関東はカワサキコンバットの三橋実、安良岡健、梅津次郎、岡部能夫、星野一義など
社内のテストライダーとして加藤、飯原その下に清原明彦が居てモトクロスなどには出場したりしていたのある。
 
ライダーたちは広告宣伝課所属だったので、カレンダー撮影などにも協力してくれたし、A1の開発などには名神のテストなどにも参加したリしている。金谷の乗ったマシンが名神でミッションが焼き付いて大変だったのだが、何とかマシンを制御して大事に至らなかったというのは、金谷の自慢話の一つなのである。
当時はこんな仲間意識の付き合いだったので、50年経った今も尚、Z1会やFacebookやネットの世界でも、昔と同じようにお付き合い頂いて入りのである。
 
 
★このファクトリーチーム3年間の経験を経て、新しい任地東北6県を担当するのだが、当時モトクロスが最も盛んであったのが、東北6県であった。
営業の素人も、レース参加を要請される各地代理店の社長さんには、大いにいい顔が出来た数年間であった。
仙台の4年間の間に、歳森、星野は日産に、金谷はヤマハに、岡部、梅津もカワサキを離れて、ただ一人山本隆だけが残っていた。
レースも本来の技術部の管轄に移っていくのである。
営業でレースの面倒を見ていたのは、私の後任の岩崎茂樹君の時代までだったと思う。
 
    
 

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