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雑感日記

二輪の世界への想い 

2012年06月11日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し



 ★昭和35年末(1960)、 『昭和』でしか年号など言わなかった、西暦で年号を語る人など皆無だったころ、
川崎航空機の発動機営業部の単車係に配属になった。
係長が故壱岐さん、営業担当は私と木村くん、それに女子の藤田さん(ご存じの方も多い藤田孝明くんの妹さん)、それにサービスの吉田、福寿、福田君、課長は北沢さん、次長は故小野助治さん。  技術関係と生産工場関係以外はたったこれだけの陣容であった。このほかに井関のモペット担当で足立くんが居た。
このメンバーの中で、その後ずっとカワサキの単車に関係したのは、小野助治さんと私と福田君の3人だけなのである。
 
単車の職制が出来たのが直前で、小野助治さんが私の1週間前に着任、私は小野助さんに引っ張られた形で、単車に異動したのである。そんな創成期の全く何もない時代からの単車担当なのである。
信じられないかも知れないが、データ―が全然なくて、当時まだ小自工と呼ばれていた小型自動車工業会に提出する二輪の生産台数もまだちゃんとしたものがなくて、大体の数字を報告したのである。ちゃんとした数字が出だしたのは、少なくとも私が担当してからである。報告した本人が言うのだから間違いないそんないい加減な時代であった。
125ccの単車には、まだ物品税が掛けられていて、これは工場の門を出た時点で申告することになっていたのだが、工場内に事務所のあったかってのカワサキ自販に売り上げた時点で掛けてしまっていて、国税局にこっぴどく怒られて、修正などさせられていたのである。
誰もが単車事業などの経験もなく、書類もダメ、管理もダメのそんな時代だったのである。入社4年目だった。
 
★それから約40年弱、二輪一筋の現役時代であった。
管理ー広告宣伝ーレースー代理店営業ー直営部ー直販会社ー企画―市場開発室ーカワ販常務までが、メーカーの職位で言えば課長時代までだが、レース担当以降はずっと経営担当と言う普通では考えられない職責で、その後も含めてサラリーマン生活の殆どを規模の大小はあったが『事業経営』ばかりを担当していたのである。
そんな経歴も影響して、『二輪事業はどうあるべきか?』とずっと考えながら育ってきた。
とエラそうなことを言ってはいるが、この40年間の半分ほどは『赤字経営』苦しい経営の連続だったのである。
カワサキ自体が二輪事業は初めての体験で、会社の先輩たちはみんな全く未経験の分野だったので、みんな手探り状態であったから、その経営もなかなか上手くは行かなかったのである。
そんな状況だったから、上の人に教わることは殆どなくて、私の先生は『ホンダさん』やヤマハや鈴木の人たちや地方の代理店の社長さんがただったし、『本田宗一郎』が社長だと思っていた。外人契約の最初、デグナ―との契約の仕方も教えてもらう人がおらずに、ホンダの前川さんに鈴鹿まで出向いて教えて頂いたのである。
そんなことで、私は『ホンダファン』でもある。  その後、企画室長時代に乗っていた車はホンダアコードで、いろいろと社内で言われたりしたが、同じ車なら同業のホンダを買うべきだと思っていた。
競争相手のライバルではあるが、大して大きくもない『二輪業界』そのものの発展をまず考えるべきだと思っていた。
 
末端消費者を対象とする業界は、ホンダ、ヤマハに勝つよりも、『音響業界』やその他『若者が魅力を感じる』業界との勝負だとホントにそう思っていたのである。
みんな趣味の世界だから、一端そこに入ってしまうとその中で金を使ってしまうのである。
『二輪業界の中に』囲っておけば、仮に1台目は鈴木でも、2台目はカワサキに来る可能性があると思っていた。
 
★そんなことだから、ホンダ、スズキ、ヤマハの方と私は結構仲良く付き合った。ひょっとするとカワサキの人よりは仲がいいのかも知れない。
現役の後半は時代には、ホンダの青山でホンダの企画の人たちと何度もいろんなことを検討したりしている。
国内はゼファーのころは「一強三弱」などとホンダさんに言われたりしたのだが、この業界はホンダが引っ張らないとダメだと本当にそう信じていたのである。
 
そしてこの業界のユーザーは独特なのである。
同じ耐久消費財でも、テレビや冷蔵庫とも全く違うし、四輪と比べても、全然その質は違っている。
『二輪ユーザー独特のもの』を持っているし、公道も走るが、スポーツ性も高いし、レースもいろいろある遊びや趣味の世界なのである。
そんな独特の世界なのに、昨今メーカーはそれを忘れてしまっているように思えてならないのである。
単に『新車を売る』ことばかりに熱中し過ぎているように思う。
 
★もう一度、『本田宗一郎』さんがやられたことを思い出して欲しいのである。
間違いなく末端のユーザーに対する意識、愛情などが感じられる施策の連続であった。
当時50ccカブ全盛の時代に、何の関係もない世界のレースにエントリーし、鈴鹿サーキットを創り、二輪の安全運転に懸けた情熱はトヨタと比べても、ダントツにホンダである。
今年は鈴鹿サーキット50周年である。
そんな時代から、二輪業界だけは日本の『護送船団方式』の枠の外で育ったのである。海外進出もお国の援助は一切受けていない。単なる商社に世話になった輸出ではなく海外での事業展開であった。世界の市場の90%のシェアを席巻した時代も、一切の業界談合などはなく一途に『競争』あるのみだったのである。
 
そんな独特のユーザーや、二輪のレースファンなどの一般の人たちを頂点とした、そんな日本では珍しい組織を創ってはと、
現役の終りの頃、ホンダさんなどといろいろ検討して出来た組織がNMCAなのだが、いまはその理念はそのホームページにはとどめてはいるが、
その運営の実態は『メーカー―業界ー販売店ーユーザー』とほかの日本の業界団体と殆ど同じ運営になってしまっている。
 

 
        
 
★昨日、Facebook の中にこんなページが立ち上がった。
『二輪文化を伝える会』  東京の村島邦彦さんと松島裕さんなどで立ちあげたのである。
このページに『いいね』はなかなか集まらないのが、普通なのだが、たった1日で『いいね』は60を超えた。
 
『いいね』を頂いた方 はこんな方である。(FBをおやりでない方はご覧になれないかも知れぬが)
このページに『いいね』はなかなか集まらないのが、普通なのだが、たった1日で『いいね』は60を超えた。
 
この写真、さて、ここはどこでしょう?
との質問に、ちゃんと答えた人もいる
 
    関川 悟
   多摩川沿いの元サーキット跡地ですね。



松島 裕 関川さん、正解。日本初の常設サーキットと言われる「多摩川スピードウェイ」のグランドスタンド跡です昭和11年頃に完成、昭和25年頃まで使われていた、らしい。その後しばらくは勝手に走れてたようです。




関川 悟 タイヤショップウルフの北野元さんや高橋国光さんがライダーとして走られていた時代ではないでしょうか!



これらを支えている
『二輪文化を語る会』のメンバーは250人を超えた。
まだ、スタートしたばかりだが、何となく楽しい雰囲気は感じられる。
何とか、『新しい二輪文化の創造』みたいなものが、末端のユーザーの手で、実現できないものかと想っている今日この頃なのである。
 
 
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