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たかが一人、されど一人

母の日 

2012年05月13日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し

今日は母の日。母は1912年の生まれだから生きていれば丁度100歳。残念ながら93歳で2005年の11月に亡くなった。小生は第3子で1940年生まれだから母が28歳の時の子になる。更に3歳下と7歳下の弟がいるので男の子ばかり5人の母親だ。昔は普通だったろうが、現代女性を思うと、いろいろな意味で存在感の大きさには敬服するばかりだ。おぎゃあと生れて以来18年間、大学に行くまでは毎日が母の監視のもとにあったとも言える。監視とは聞こえが悪いが、言い換えれば庇護又は掌の上と言うべきかもしれない。18年と言えば短いようでもかなりの歳月、我が性格形成に最大の影響を及ぼしてくれたのは間違いない。思い出を書き出せば留まるところが無くなるので、ブログの関係で思いつく事を書く。我が家では誰にも日記を書く習慣は無かった。従って母の日記なるものを見た記憶はない。しかし読書が好きであったのは間違いない。昭和20年代の田舎町には書店は少ないし、新刊書なんか殆どなかったろう。第一この頃の主婦は家事に忙しくて、読書なんぞするのは一風変わった人種だったのではなかろうか。今でも父の部下たちの間で語り草になっている事がある。小学校5年生の冬だったと思うが、父の部下数人がスキーにとて志賀高原に連れて行ってくれた。その時一人が「お母さんは何している?」と質問して、小生が『「チャタレー夫人の恋人」を読んでいたよ。』と答えたらしい。そこで皆が大笑いになったが、こちらには理由が分からなかった。記憶も曖昧なのだが、両親の関係者の間では今でもよく話題になる。戦後のベストセラーを読んでいた母が、文学少女だった証しはもう一つある。国会図書館にも納められているが、祖父が母の妹が早逝したのを悼み、彼女の遺稿集を自家出版した。その編集実務と後書きを書いたのが母だ。1932年、母がまだ20歳の時のこと、後書きは今読んでも立派な文章で感心している。子供たちが大きくなってから、母は謡や書を習っていた。PCの普及がも少し早ければ、ブログにも手を染めただろうか?少なくとも小生は、母が亡くなった時からSNSのmixiで日記を書き始めた。

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