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鎌倉の息子家族のところへ・その2 

2012年04月17日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し

 14日(土)は生憎の雨の一日でした。
 それで私一人で、もう行く機会もあるかどうか判らないので、生まれ育った大井伊藤町(現在の西大井)をブラ
 つくことにしました。
 
 横須賀線で西大井駅へ。私が高校へ通っている間も、ここは品鶴線と云う貨物列車が走っていたところです。
 勿論西大井駅もなくて、土手の上を線路が続いているだけでした。今は線路の上空を新幹線が通り、全く想像
 も出来ません。


 原踏切から横須賀線西大井駅、上は新幹線。
 


 伊藤博文公のお墓は変りありませんでした。
 
 西大井の駅から数百メートル手前(鶴見寄り)の処に線路を跨ぐ橋があり、夏の夕暮れにはモチ竿を持って
 銀ヤンマがやって来るのを橋の上で待ち構えていたものです。小さい石を放り上げると、それにつられて急降  下して来るのです。


 
 当時は自由に線路に降りられて、レールの上に太い釘を置いて遊んだものでした。今は金網が張られ全く線  路には降りられません。
 
 終戦から間もなくは、その橋の下辺りで時々飛び込み自殺がありました。それは列車が停車して長い間汽笛を
 鳴らすので分かりました。恐る恐る行ってみると、いつもムシロを被せられた遺体が線路脇に置かれていまし  た。
 
 私たちはその線路近くの住宅街の狭い路地で、三角ベースの野球等をして遊んでいたものです。
 その路地際のあまり太くない木に浴衣の帯びみたいな物を使って、首吊り自殺をしたおじいさんがいました。
 病気を苦にされたとかでしたが、その帯びがいつまでも木に引っかかっていたのを憶えています。
 
 その路地も2階建の家がひしめき合って、昔の面影はありません。記憶にある表札が一つ二つ目にとまった
 だけでした。
 


 私が通った伊藤小学校です。空襲で学校は消失、初めは隣の原小学校の間借りでした。
 それから木造の建物が建てられました。原小学校の時代は3部授業だったりしました。入学当初は先生が
 缶詰を生徒に分けて、それを食べて帰るといった状況でした。
 
 ひどい食料難で、サツマイモなんか食べられれば最高で、フスマを炒って食べたこともありました。ウンチが
 固まりませんでしたね。 (この項つづく)
 
 

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