「監督 中野量太」の名がスクリーンに浮かび、そして消え、
場内が明るくなった瞬間です。
広い読売ホールに、拍手が湧きました。
異例のことです。
だって相手は、映画です。
無人のスクリーンに向かってです。
私も、かつて、こんな光景に出会ったことがありません。
良い映画だった……という思いが、多くの観客の胸に、溢れていたからでしょう。
拍手は、期せずして起き、そして、たちまち、場内に広がりました。
私もそれに加わったことは、言うまでもありません。
認知症という、治療の難しい病気があります。
昨今、それは多発し、世間に珍しいことでは、なくなっているようです。
患者より、むしろ家族が大変です。
患者本人には、病気の自覚がなく、そして「自我」だけは、人一倍強いのですから。
もしかすると、独善的に、自信満々に、人生を生きて来た人の方が、罹りやすいのかな?
と、思ったりもします。
この映画の主人公もそうです。
かつて学校の校長先生でした。
管理者としての自分に、自信を持っています。
漢字も得意です。
その証拠に、認知症を患った今となっても、難しい字の読み書きが出来ます。
どうやら、記憶というのは、一律に薄れるわけではなく、脳の記憶領域により、
消滅度が違うようです。
「厄介な病気」たる所以かもしれません。
振り回される家族も大変です。
それぞれに、俗世の事情を抱えてもいます。
今時、介護に専念出来る者など、居ないのが、核家族と化した現代家庭の通例です。
対処の困難な、認知症特有の症例を並べつつ、物語は進んで行きます。
見ているのが辛いです。
ああはなりたくない……
それは、認知症患者となった自分の姿を、つい想像するからです。
あんなことまで、自分に出来るだろうか……
それは、介護する側に立った場合を、想像させられるからです。
その辛い部分を、和らげてくれるのが、随所に配された、笑いです。
家族間の、思い込みによる、行き違いなどが、その中心になりますが、
落語の「くすぐり」のような、取って付けたような笑いも、なくはありません。
そしてまた、認知症の症状そのものが、そのまま笑いとなることもあります。
それは多分に、苦笑の域を出ませんけれど、重いテーマを扱う映画の、
緩衝材となっていることは確かです。
私は多分、泣くと思っていました。
最近、涙腺が脆弱化し、ダムが決壊すると、もう、手の施しようがなくなるのです。
でも、この映画の場合、僅かな出水で済みました。
多分、監督の手腕でしょう。
単なる闘病記に陥らないように、家族のそれぞれに起きる、小さな事件を要所に配し、
観客の興味を繋いで行ったからでしょう。
出演者もよかったです。
蒼井優、竹内結子、松原智恵子の女優陣が巧みでした。
患者本人を演じた山崎努、これもまあ、適役というべきでしょう。
仏頂面がかすかに緩む、その微細な変化が見どころです。
家族愛を描いて、良く出来た映画です。
しかし、自分にあんな、愛情あふれた妻子が居るか……となると、
途端に自信がなくなります。
ボケる。
人間の尊厳を失って、なお肉体だけが滅びない。
それは最悪の事態であり、そこへだけは陥りたくありません。
生老病死の、そのいずれもが、厭わしい中で、克服できない「病」なら、
そうなる前に「死」を望む方が、賢明かなと思ったりします。
私はこの映画を、一般公開を前にして行われる、試写会にて見ました。
ステージに、監督や出演者が居並び、挨拶をする催しです。
私は、当ナビトモの企画に応募し、この試写会に行きました。
抽選に当たったようです。
申し込んでみるものでね。
他にも、当日行かれた方は、いらっしゃるでしょうか。
いらっしゃったなら、映画のレビューくらい書けばいいのに……
と思っていましたが、一向にその気配がありません。
私は書きます。
お礼の気持を込め、ここに書きます。
但し、招待券を頂いたからと言って、レビューの点数を甘くする……
なんてことは致しません。
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