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たかが一人、されど一人

開戦記念日 

2011年12月08日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し

終戦記念日には戦没者を慰霊する行事などが大々的に行われ、それなりの報道もあるが、戦争の火ぶたが切られた日は記念すべき日ではないらしい。何も笛や太鼓で祝えとは言わぬが、我が国の歴史上重大なターニングポイントである日には間違いない筈。当時の世界情勢とこの日の国民のありよう、特に上は上御一人から補佐した内閣や政治家、官僚、上御一人様直属とされた軍隊、社会の木鐸であったマスコミ、そして下々の皆さんはどうであったか。むしろこちらの方を、子子孫孫にまで忘れないように仕向ける事の方が大事なように思う。もし総理大臣か文科大臣なりせば、小学校と中学校の日本史のカリキュラムにこの部分をかなり長時間組み込むべく努力するだろう。毎年この日が来ると、現存する生き証人がいるうちに実現できれば、と夢のようなことを考えている。偶々昨日は、それこそ現存する旧陸軍関係者と偕行社(旧陸軍から自衛隊OB迄の親睦組織の事務所)で碁を打っていた。碁会所ではないので、周りに幾つかの懇談の輪がある。老人の集まるところだから仕方がないのだろうが、声が大きい人がいる。最初は開戦時のアメリカの策略について論じていたようだが、やがてそれに乗っかってしまった当時の上役即ち軍幹部を悪しざまに言い始めた。偕行社は元々士官のクラブと聞いていたが、こんな行儀の悪い兵隊の成れの果てみたい人間が出入りしているには些かびっくりした。誘って頂いた方も眉をひそめていらしたが、黙って碁に集中するよう努力されている様子だった。老人の親睦クラブで喧嘩する訳にはいかなかったのだろう。話が逸れたが、昨年と一昨年の今日に日記を読み直してみた。書いているのはやはり個人的な思いで、開戦そのものについては記憶が風化しつつある事しか伺えない。戦争と言う大事件ともなると、誰にその責任があるのか特定するのは非常に難しい事かもしれないし、国民が責任追及を選択しなかったのも一つの知恵だったのかもしれぬ。しかし三条河原で打ち首とか磔獄門とかの厳しい罰が下されたものについては、記憶がいつまでも鮮明になるとも言える。東京裁判で断罪された7人の方には可哀そうだと思うが、どうせ絞首刑になるなら日本の裁判で死んでもらった方が後世のためにはなった筈。こんな不謹慎を敢えて書いたのは、今年起きた東電の福島原発事故が似ていると感じているからである。誰かに責任はある筈だが、誰もがその特定に関しては口を閉ざしている。勿論、個人的に声を上げる人はネット上にはたくさんいるが、これは終戦直後に声を上げた共産主義者と同じで、社会的には黙殺されている。開戦の傷跡は70年を経過した今、一見して癒えているように見えるが、大変な内部被ばくをしているのに気が付かないだけだ。

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