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咳をしてもひとり
2024年02月14日
テーマ:読書案内
俳句を楽しんでいるが、ときに息苦しくなることがある。俳句は「季語」を入れ、「五七五」の定型にするといった約束事が、ぼくを縛っているからだろうか。
好きなジャズピアニストのセロニアス・モンクが「ジャズと自由は手をつないで行く」と言ったように、この縛っている約束事を解いて、自由に表現したいことがある。
自由律俳句は、五・七・五の十七音や季語といった定型の制約に制限されることなく、感じたままを自由に表現する俳句の型。
自由律俳句の山頭火がよく知られているが、知人と酒を飲んだとき、山頭火の話をしたら、「ラーメンか」と返され、悪酔いしたことがある。
馴染みの古書店で、尾崎放哉(おざき ほうさい)の生涯を描いた吉村昭の『海も暮れきる』(講談社文庫)を見つけた
自由律俳句の尾崎放哉(1885年〈明治18年〉- 1926年〈大正15年〉)を知ったのは、受験勉強のさなかであったと思う。おそらく、意に染まない勉強にうんざりしていたので、五七五、季語、切れ字などにとらわれず、感情の自由なリズムのようなものを表現する自由律俳句に惹かれたのだろう。
尾ア放哉は一高・東大というエリートコースを歩み、保険会社の重役にまで昇進しながら、ある日、一切を投げ捨てて放浪の生活をはじめ、最後は小豆島のちいさな庵にこもって、「咳をしてもひとり」という孤独な生活を送ることになる。
小豆島に落ち着いてからの放哉の日常は満ち足りたものらしかった。庵を出れば、彼が好きだった海が目の前に拡がっていたし、温暖な島の気候に守られて肺の持病も悪化せず、放哉は興の赴くままに美しい作品を生み続け、眠るように静かに死んでいった。
放哉は海を見ていると、温かく抱擁されているように感じる性格だったといわれた。それは、彼の内部に自殺願望が潜んでいるためで、いざとなったら、酒を飲んで、海の中に歩いて行けばよい、そうすれば静かに死ねるはずだと思っていたからだともいわれている。暖かな海に囲まれている小豆島が、彼には格好の死に場所と感じられたのだろうか。
島に渡った放哉は、小さな庵に入ることができ、そこで寺の住職や近所の人などに肉親も及ばぬ手厚い保護を受けている。
それでも放哉は、出来るだけ厄介にならないように心がけて生きていこうと思い、節食を心がけて出費を抑え「入庵食記」をつけはじめている。
それによると、毎日、放哉は焼米、焼豆、麦粉にラッキョウと梅干を食べるだけで、番茶をしきりに飲んでいる。焼米と焼豆は硬くて歯の悪い放哉には少ししか食べられず、そのため日がたつにつれて彼は、立ち上がると目がくらみ、頭痛に悩まされるようになった。
吉村昭の『海も暮れきる』(講談社文庫)を読まなければよかった。
読むと「妙好人放哉」のイメージは、一挙に消え去って、我執にまみれたエゴイストの陰惨な人生というイメージが浮かんでくる。放哉には悪質な酒癖の欠点もあった。
それまでぼくの脳裏にあった放哉は、良寛を思わせるような脱俗の求道者であり、保険会社の重役という地位を、破れた履物のように捨て、小豆島に隠棲して俳句を作り続けた天性の詩人だった。
庵主としての彼の生活は貧しくはあったが、何者にも制約されない自由な日常が彼に純金のような幸福をもたらし、彼は珠玉のような俳句を作りつづけながら天寿を全うした。
ところが吉村昭の描いた現実の放哉は、小豆島に移ってから一年とたたないうちに持病の肺を悪化させ、無残な死に方をしているのだった。
受験勉強が終わっても、放哉の句はずっと好きだった。
●放哉が小豆島で詠んだ句の一部
いつしかついて来た犬と浜辺に居る
足のうら洗へば白くなる
海が少し見える小さい窓一つもつ
切られる花を病人見てゐる
障子あけて置く海も暮れきる
入れものが無い両手で受ける
咳をしてもひとり
なんと丸い月が出たよ窓
肉がやせて来る太い骨である
春の山のうしろから烟が出だした(辞世の句といわれる)
自由律の試み
えんぴつがきょうも重い
まっすぐな道を歩きたくない
海が好きな人といっしょにいる
いつかどこかで出会うことになっていた
何万回の偶然が重なっていまあなたとこうしている
ぼくには見えてキミには見えないものがある もちろんその逆も
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