筆さんぽ

自分のなかに棲む人物のブログ 

2024年01月21日 ナビトモブログ記事
テーマ:エッセイ

ひとりの人間のなかに温厚、謙虚な医師と、凶暴、破廉恥な悪漢とが棲みついていて、代わる代わるに立ち現れて、その男を行動と破滅へ駆り立てていくという物語が書かれてから「二重人格」という言葉が生まれ、いまでは常識となった。

ぼくのうちに棲む人物のうちのひとりに、この日のブログを書いてもらおうと思う。
その人物は、「感傷主義」的な人物で、無垢に憧れ、意志よりも感情を重んじ、いまも旅の空にある。

彼は「感傷主義」というものは、生きる力にもならないので、「いい年をして」もってはいけないことはわかっているようである。

若いころ、東南アジア旅した。
タイのチャオプラヤー川は、朝のやわらかい風になでられて、気持ちよさそうに深緑色の大きな身体を横たえていた。
川に沿った市役所前の広場も、やわらかい風がはこんできたさわやかなもてなしをたのしんでいた。
広場の夜は、屋台が並び、夜祭りのように賑わった

市役所前の広場を横切ると、その奥には、ちいさな桟橋をもったイミグレーション(出入国管理事務所)がある。
海から入ってくる外国船を監視するためである。

ぼくは、毎日、この広場でおいしい酒を飲んでいた。夜の酒は頬ずりしたくなるほどかわいいヤツだが、朝になると、掌を返したように、高慢ちきな駄駄っ子になる。

日課の散歩は、この子をなだめるためである。
いつものように、桟橋のいちばん川に近いこわれかかった木のベンチに腰掛けて、風上に向かって舌を出してみた。すると海は見えないのに、かすかに海の味がした。

海の味を飲み込んで、また舌を出す。これを何回か繰り返していると、身体のなかの駄駄っ子もおだやかになってくれる。

ふと視線を感じて振り返ると、乳母車を引いた少女が立ち止まって、舌を出しているぼくを見てちいさく笑っていた。

少女は、大人びた聡明な顔立ちをしていた。目は大きく、鼻と顔の輪郭はほっそりと磨かれ、だいぶ着古したTシャツと、ショートパンツから無造作に突き出した手と脚は、サラブレッドの四脚のように美しく伸びていた。

朝のやわらかい光は、少女の清らかなうなじや肩のやさしい曲線や、ちいさな胸のあたりにそそいでいた。

「アライナ カップ(どうしました)?」
ぼくは舌を引っ込めて、笑顔をつくって話しかけた。

すると、乳母車のなかから、甲高い赤子の泣き声が飛んできた。それは、ボリュウムのツマミを回すように、大きくなってきた。

ぼくはベンチから腰を上げ、小走りで乳母車に向かった。
そして乳母車に着くと、なかの赤ちゃんに、両手で顔をかくし、つぎにその両手をぱっと開き、「いないいないばあ」と笑顔をつくった。

赤ちゃんはさらに泣き声をボリュームアップさせた。
ぼくの動作を見ていた女の子は、腹を抱えるように大笑いした。何がおかしいのか、いつまでも笑っていた。

赤ちゃんは、笑っている女の子を見て、泣き声をちいさくして、やがて泣き止んだ。

ぼくは桟橋のベンチに戻って、風上に向かって舌を出してみた。すると海は見えないのに、かすかに、しょっぱい海の味がした。


話を戻して、二重人格のこと。
一人の人物のなかに二人の人物を感じているあいだはまだしのぎやすいことがあったと思うが、その後、時代を追うにつれ、二人の人物はどんどん分裂し、「多重人格」という言葉が使われるようになった。

感性、知性、教養、趣味など、体系の異なる、何人ともさだかではない数の人物が一人の人物のなかに棲んでいることも考えられるので、毎日、異なるブログを記すことができることもあるだろうし、みなさんのブログをたのしんで読んだり、見たりすることができるのだろう。

明日はどんな人物がでてくるのか、自分でもたのしみでもある。



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