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昨日の飛行機工場の少女たち朗読会のビデオ 

2023年08月14日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し



https://www.youtube.com/watch?v=MjB-QyeIe8E
昨日の「飛行機工場の少女たち」朗読会の録画です。(最後の方で私が長々と喋っています。敗戦後の青春を。)
昭和3年生まれの方々から、私と同年昭和6年生まれ迄の人が、女学校から工場に動員された思い出を戦後に綴られた文集です。
13歳の女の子に、飛行機を作らせるような国だったのですよ、当時の愚かな日本は。私も昭和20年に女学校2年になりましたので、勉強は無しで、軍需工場の焼け跡で、真鍮の部品を瓦礫と灰の中から探していました。爆弾にやられたのでしょう、焼夷弾に焼かれた形跡は無かったです。祐天寺から電車3本乗り継いで行く不動前駅の近くなので、電車で遠回りせず、5キロ近い道を歩いて通いました。9月になって、女学校が借りている焼けなかった小学校の一部に登校したら、8月までの給料が支払われてびっくり!勤労奉仕だと思っていたのに、お給料貰った。それも敗戦後に。あの工場大丈夫なのかしらと心配したものです。その金額を記したであろう日記帳を失くしたのは残念でした。工場が爆撃前に行って、機械を操作してみたかったなあと残念がりました。器用さには自信がありましたから。
私は間も無く女学校を辞めました。働かないと食べて行けなくなったのです。充分あったはずの父の遺産は、1ヶ月食べられるはずのお金で、菓子パン一個しか買えなくなりましたから。インフレは何よりも恐ろしかったです。結局勉強できたのは小学校だけ。それも修学旅行は私の学年から無くなってしまい、遠足さえも無し、学校行事の楽しさは何一つ味わえなかった世代なのです。
半年間ウエイトレスの仕事をして軽い結核になり、半年療養、そのあとは19歳でバスの車掌になるまで、ろくな仕事には恵まれませんでした。大学生のフリをして、道端でノートや傷物の鏡を売ったのは、結構楽しい日々でしたが。偽学生でアルバイトをしながら、仲間の大学生たちはいつ学校に行っているんだろうと、不思議に思ったものです。稼がないと食べられなかったからですが。彼らはちゃんと卒業できたのでしょうか???まあ当時の子供は逞しかったから大丈夫でしょうけれど。

お盆休みの工事現場は静かです。

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