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「開国と攘夷」下田の街レポートMハリス将軍徳川家定に謁見す 

2023年05月30日 外部ブログ記事
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米国総領事ハリスは、通訳ヒュースケンを伴なって安政4年10月7日(1857年11月23日)下田を出発した。天城山を進み富士山を見た感動は5月12日のblog記事にした。
安政4年10月14日(1857年11月30日)「蕃書調所」に到着した。最大の目的である「大君との謁見」が安政4年10月21日(1857年12月7日)に行われた。
ハリスの滞在記によれば「蕃書調所」から「江戸城大手門」まで1哩半(約2.4キロ)となっている。「ヒュースケン日本日記」の記述から行程を図示してみた。発行者木下栄三「江戸城新三十六御門重ね絵図」に加筆。

「下田物語 下」の表紙絵「江戸城に伺候するハリス」(筆者未詳、九条家所蔵の絵画、東京大学史料編纂所提供)
左より出府取扱掛りのひとりである大目付土岐丹波守、下田奉行井上信濃守清直、ハリス、ヒュースケン、たぶん森山と思われる通訳。

岩波文庫「ハリス 日本滞在記 下」から抜粋した。
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? 私は屋外に眼をやって、一階建、瓦葺の木造建築に園続されているーつの小さなコートヤード(中庭)を見た。? 単独の謁見室は、大謁見の行われる室と同じ外見をしている。 しかし、それからは、例の襖で隔離されているので、大名たちは私の出入りを見たり、謁見の際のロ上を全部聴いたりすることはできるが、その室の中を見ることはできなかった。? やがて合図があると、信濃守は手をういて、膝行しはじめた。私は半ば右に向って謁見室へ入っていった。? その時、一人の侍従が高聲で、「アメリカ使節!」と叫んだ。私は入ロから六フィートばかりのところで立ちどまって、頭を下げた。それから室のほとんど中央まで進み、再び立ちどまって頭を下げ,又進んで、室の端から十フイートばかり、私の右手の備中守と丁度相封する所で停止した。そこには備中守と、他の五人の閣老とが、顔を向けて平伏していた。私の左手には大君の三人の兄弟が同様に平伏し、そして彼らのいずれも、私の方へ殆ど「眞ん向き」になっていた。数秒の後、私は大君に次のような挨拶の言葉をのべた。  「陛下よ。合衆園大統領よりの私の信任状を呈するにあたり、私は陛下の健康と幸福を、また陛下の領土の繁築を、大統領が切に希望していることを陛下に述べるように命ぜられた。私は陛下の宮廷において、合衆國の全権大使たる高く且つ重い地位を占めるために選ばれたことを、大なる光柴と考える。 そして、私の熱誠な願いは、永績的な友誼の紐によって、より親密に雨図を結ばんとするにある。 よって、その幸福な目的の達成のために、私は不断の努力をそそぐであろう」。?ここで、私は言葉を止めて、そして頭を下げた。短い沈黙ののち、大君は自分の頭を、その左肩をこえて、後方へぐいっと反らしはじめた。同時に右足をふみ鳴らした。これが三、四回くりかえされた。それから彼は、よく聞える、気持のよい、しっかりした聲で、次のような意味のことを言った。? 「遠方の國から、使節をもって送られ書翰に満足する。同じく、使節の口上に満足する。両國の交際は、永久につづくであろう」。?(一八五五年十一月十五日、 ハりスの覚書・「禮服ー白絹で縁をとった青色の服、黄金で縁をとった真直ぐに立ったカラー、 シングルの胴着、少しく縁をとった方正又は円形のボタン穴――海軍ボタン、 カラーと同じように縁をとったカフス、白色のカシミア半ズポン、黄金の膝止め、白絹の靴下、黄金の靴止め金ー管下帽、前立は黒色で、黄金の鷲――剣」?
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岩波文庫「ヒュースケン日本日記」より抜粋した。
 一行はこの門〔大手門〕のところで馬やノリモンを捨て、旗を置いた。大使だけは例外としてノリモンに残った。第四の橋〔下乗橋〕に達したとき、大使もノリモンから下りた。       【管理人・注】「ノリモン」とは「乗り物」即ち「駕籠」であろう。 さらに壁に囲まれた門を四つ通り過ぎてから、宮殿のある中庭に着いた。玄関で汚れた靴をはきかえ、七段の階段を上る。廊下のようなところ〔御玄関階上〕に二人のオメツケ〔大目付と御目付〕が迎え心出ていたが、 一人は丹波守で、もう一人が先導して控えの間(殿上間下段〕にはいった。床から八フィートばかり高いところの鏡板には、樹木や花、鸚鵡などの透かし彫りが施してある。? そこへ委員〔接待御用掛〕たちが挨拶と接待のためにあらわれた。一人の高官が、自分たちの部屋〔大広間御車寄仮控所〕にきてみないかと大使を誘った。そこでわれわれは殿中の大広間に案内してもらった。天井は三十フィートの高さがあり、木の柱で支えられていた。それから下検分と予行演習のため、謁見の間に案内された。その後広間にもどって、衝立の陰に椅子をすすめられた。? ようやく、大君が玉座に上った。静粛を命ずる万国共通の音を人々がたてるのが聞こえてきた。? 先刻の二人のオメツケが、用意がととのったことを知らせにきた。二人が先導し、信濃守がそれに従い、次に大使、それから私が、アメリカ国旗に包んだ大統領の書翰を持ってつづく。われわれの進む右手には式服をまとった廷臣たちが大勢(六、七百名も)ひざまずいていたが、その衣裳は、頭のてっぺんにちょこなんと載っている四角い漆塗りの被りものと、非常に幅の広い袖のついた、淡黄色の麻の着物からなっていた。そのゆったりした袖には紋章がついている。プロテスタントの牧師のラパトのように結んだ白絹の帯を巻き、反りのある片刃剣を侃びている。このときは一本だけであった。彼らはズボンをはいているが、それは脚の長さの二倍もあって、完全に足が隠れ、余った部分は後方に引きずっているので、膝で歩くような恰好に見える。多数の廷臣が集まっているのに、きわめて深い静粛がその場を支配していた。? 広間と、大君のいる部屋とを仕切っている板戸のところまで行くと、二人のオメツケは信濃守と同じようにひざまずいていた。そこで右に向き直ると、正面に大君がいた。信濃守は膝行してわれわれを先導する。大使は普通に立ったまま、身を屈めてそのあとにつづく。大使は一段高く上って畳二畳の長さだけ進んだところで二度めのお辞儀、五畳めの畳で三度めのお辞儀をして、そのまま立ち止まった。大使の右側には閣老会議の五人の委員、左側に他の高官が五人、[みな]ひざまずいていた。そのほかには日本の国王陛下に拝謁を許された者はいなかった。? 大使のいるところから床はまた一段高くなっており、三フィートばかりある壇上の御座所の奥に、国王陛下、すなわち日本の大君が床凡のようなものに坐っていた。しかしそのあたりは暗い上に離れているので、ほとんど姿が見えない。天井から垂れ下がったカーテンが顔を隠している。ひざまずいている人たちにはよく見えるが、直立しているわれわれには無理である。? 大使はそこで口上を述べて、大統領から選ばれて陛下に国書を捧呈することを光栄に思う旨、また、陛下の宮廷に対する全権犬使に任ぜられたことを光栄に思う旨、そして[彼にとってそれが]最大の慶びである旨を述べた。そして最後に英語でこう結んだ。? 「陛下、私は、アメリカ合衆国大統領の信任状を捧呈するにあたって、大統領が陛下の健康と幸福、貴領土の繁栄を衷心から祈念していることをお伝え申し上げるよう命ぜられております」。? 「私は、陛下の宮廷において合衆国全権大使の高い重要な地位につくために選ばれてまいったことを大なる名誉と考えております。そして私の衷心よりの願いは、両国を永続する友情の紳によってさらに密接に結びつけることでありますから、そのよき目的を達成するため、不断の努力を傾注いたしたいと存じます」。? この結びの言葉に対して、大君は三度床を踏み鳴らし、そして日本語で答えた。? これは通訳森山多吉郎のオランダ語で、意味は「はるか遠国より使節に托して寄せられた書簡をうれしく思う。また、使節の口上もよろこばしく聴いた。末永く交誼を保ちたいものである」ということである。? この挨拶には人称代名詞がなかった。大君は「私」などという小さな言葉を使うには偉大すぎるからである。ところでその私は、御座所の入口に控えていたが、この挨拶の終わったところで前に進み出て、三回と定められたお辞儀をくりかえし、大統領の手紙を大使に渡すと、大使はそれを開いて、大統領の署名を外国事務相に示し、その手に渡す。すると外国事務相はそれを玉座の前の小卓に載せる。そこで大使は暇乞いをし、後ずさりして、定めのとおり三拝の礼をする。? これが、この帝国からいっさいの異国的なもの、つまりキリスト教的なものを放逐した君主の子孫の面前でおこなわれたのである。日本における異教徒迫害は、キリスト教徒が残らず死に絶えるまで誉まなかった。 外国からの手紙をもたらす者は、何人によらず、 一族もろとも処刑すると宣言した勅令は、まだ生きている。? しかし、新来の宗教に加えられた残虐行為を理由としてあまり日本人を責めることはやめよう。信徒たちは、主の戒めを忘れ、日本を荒廃させている内乱に加担した。われわれ自身の歴史をふりかえってみても、異端審間の火は容易に消えなかったし、カルヴィンはセルヴェトウスを殺し、神聖同盟の加盟者たちは、聖バルトロメオの宵にユグノーを虐殺した。すぐれた文明を誇り、キリスト教の僕と自称するわれわれヨーロッパ人も、信仰を異にするからといって互いに殺しあうことをやめず、そうしたすべての残虐行為や火刑や絞首刑が、愛と恵みの主――愛と慈しみだけを教えた人であるのに――に仕えるために必要であると公言するほど狂信的であったのだ。? 日本の宮廷は、たしかに人目を惹くほどの豪著さはない。廷臣は大勢いたが、ダイヤモンドが光って見えるようなことは一度もなかった。わずかに刀の柄に小さな金の飾りが認められるくらいだった。シャムの宮廷の貴族は、その未開さを泥臭い賛沢で隠そうとして、金や宝石で飾りたてていた。しかし江戸の宮廷の簡素なこと、気品と威厳をそなえた廷臣たちの態度、名だたる宮廷に栄光をそえる洗錬された作法、そういったものはインド諸国のすべてのダイヤモンドよりもはるかに舷い光を放っていた。? このひざまずいた群衆の間を縫って、大日本の尊大な独裁者――それは家康の後胤であり、外国人やキリスト教徒に対して一人の例外もなく敵意を抱いてきた歴代の君主の子孫である――の玉座に向かって、二人の男が胸を張って進み出る。しかし、ひとふりの剣も鞘走らなかった。近従の衛士たちも、誰ひとりとしてこの僭上者を遮るがために立ち上がろうとはしない。無礼を各める声ひとつ聞こえない。彼らはまるで大理石かブロンズの彫像のように沈黙して、身じろぎもしなかった。? 江戸の宮廷はにわかに無力になってしまったのか? 情深い女神さまか何かが、二人をかばって下さったのか? 恐るべき軍隊が彼らを護っているのか? 二人の背後に剣付鉄砲の兵士がついていたわけではない。彼らの携えている武器はといえばひとふりの剣だけだったが、それとても一合すればみじんに砕けてしまいそうなものでしかなかった。いや、それは、文明の太陽、進歩の星が、再びアジアに輝いたからなのだ。無知と孤立の闇が消え、この帝国の誇り高い統治者も己の無力と西洋諸国民の力を認めはじめており、今日まで、思わせぶりな女王のように世界のあらゆる大国の縁組みの申し入れをはねつけてきたこの帝国も、ようやく人間の権利を尊重して、世界の国たの仲間入りをしようとしているのだ。? しかしながら、 いまや私がいとしさを覚えはじめている国よ、この進歩はほんとうに進歩なのか? この文明はほんとうにお前のための文明なのか? この国の人々の質僕な習俗とともに、その飾りけのなさを私は賛美する。この国土のゆたかさを見、いたるところに満ちている子供たちの愉しい笑声を聞き、そしてどこにも悲惨なものを見いだすことができなかった私には、おお、神よ、この幸福な情景がいまや終わりを迎えようとしており、西洋の人々が彼らの重大な悪徳をもちこもうとしているように思われてならないのである。? 数分後に、閣老たちの集まっている部屋(二之間〕に移った。十五着の時服が二つの台に載せて運びこまれた。堀田備中守が大使に向かって言った。「大君より貴下にこれを下しおかれます」。それからまた言った。「大君よりヒュースケン氏にこれを下しおかれます」。? 大君へのお礼を申しあげると、堀田は再び言った。「大君よりお食事を賜ります」。? われわれは別室に移った。大使と閣老たちは、またそこでお辞儀をしあった。最初に出迎えを受けた控えの間に戻る。八人の委員たちはそこで別れの挨拶をした。階段の最上段の廊下で、二人のお目付とお辞儀しあい、来たときと同じようにして宿舎に戻った。? そこで大君から賜ったお食事を頂戴した。料理はすべて白木の小さなテーブルに載せて出される。木皿はすべて一度しか使われないのであるが、それは非常な尊敬のしるしであるということであった。皿も鉢もすべて、われわれのために特別に用意されたものであるとも聞かされた。大使のテーブルには、樹齢一千年といわれる有名な樅の樹にかたどった木と、その下に一対の小さな人形がおかれていた。すべて巧妙な紙の細工で、造花のようにみごとであった。? この人形は百年以上も生きたパンジオエとヤコウシンをかたどったものであった。 これは日本で長寿の縁起ものとされている。大使への贈物は絹の時服十五着 私には絹五反であった。?
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(続く)

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