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「江戸と近代日本の歴史散策」の資料@ 

2023年04月07日 外部ブログ記事
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5月21日(日)東京の戦争遺跡を歩く会主催「江戸と近代日本の歴史散策」の資料です。
明治新政府は江戸城、譜代大名、旗本屋敷を、官衛や「東京鎮台」施設の敷地にしました。
明治6(1873)年「東京鎮台」、「仙台鎮台」、「名古屋鎮台」、「大阪鎮台」、「広島鎮台」、「熊本鎮台」の7鎮台に、鎮台の呼称は明治21(1888)年廃止され、師団司令部の呼称となりました。

平凡社刊「地図で見る東京の今昔」
「北の丸」

「霞が関」

「桜田門外の変」大老井伊直弼が屋敷から登城するため桜田門に向かった時に襲撃された。

「大手町」

「丸の内」

現在の「日比谷交差点」あたりとなる場所に「中山邸」が見えますが、明治天皇睦仁の生母である中山慶子の父、権大納言・中山忠能の邸宅です。
二回目の亡命中だった孫文は支援者の平山周とこの屋敷の前を通ってから、京橋の旅館に着きました。宿帳に偽名を書く段になってハタと考えました。そこで今ここに来るときに通ってきた屋敷の表札「中山」を思い出し「中山樵」と偽名を書きました。中国に帰国してから号を「中山」とし「孫中山」と呼ばれるようになりました。【参考文献】車田譲治著・国父孫文と梅屋庄吉
(続く)
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