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昭和2年生まれの航海日誌

ザクロに阿漕浦 

2011年10月18日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し


 津市内の南部にはきれいな流れの岩田川がある。
その河口から南へ、かって風光明媚な白砂青松の海岸が続いて
いた。

 若い日に、海から眺めたその光景は、いまも目に浮かぶ。
その海岸とほぼ平行に伊勢電鉄が走っていた。
 あの大軌鉄道(近鉄)と、政府要人が介入し路線をめぐり激烈
な競争をした会社である。

「いなずまの 車走るいつの日か 恨みは長く 木曽の大橋」
                熊沢 一衛

 阿漕浦駅は岩田川に一番近い駅で、その沖合が阿漕浦というこ
とにる。

 昭和30年晩秋の頃、親父に連れられて初めて行ったのが津競
艇であった。各駅停車で阿漕浦で降り、ぞろぞろと、岩田川まで
歩いた。

 当時,三重出身の倉田 栄一が日本一、ランナーの神様と、言われ
までに全盛を誇っていた。
 最終レースで予期しない幸運が舞い込んできた。

 倉田選手のエンジンがどうもよくない。彼の実力を知らない私は
他の選手を選んだ。
 一周したところで、倉田選手はエンスト失格。舟券が的中した。
「こっりゃ、大きいぞ!」と廻りが騒ぐ。

 一万円を超える配当。いまでこそ大したことはないが、当時は
月給が万を超えるサラリーマンは少なかった。

 弟たちに千円づ」分配した。これが高いプレゼントになりはしない
か、と案じてもみたが、喜ぶ顔が嬉しかった。

 親父と、競艇に行ったのは、これが最初の終わりであった。川堤の
石段に腰を掛けて観ていたなあ。

 近所の若い衆も行くようになった。
「何処へ行ってきた」
「阿漕」
「どうだった」
「阿漕なことを」
まあ、タバコ代位のものだとは思うが、

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