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『笹川良一編』A級戦犯容疑者である「スガモ・プリズン三兄弟」笹川良一・児玉誉士夫・岸信介と統一協会=勝共連合の系譜 

2022年08月29日 外部ブログ記事
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『A級戦犯容疑者である「スガモ・プリズン三兄弟」笹川良一・児玉誉士夫・岸信介と統一協会=勝共連合の系譜』の「笹川良一編」
約20年前に、恵泉女学園大学教授(当時)内海愛子さんが講師をした「BC級戦犯ツアー」に参加した。見学場所は、駿河台文化学院と平和島競艇場だった。
駿河台文化学院は、戦時中アメリカ軍向けの謀略放送所(東京ローズ)だった場所。
平和島競艇場は、戦時中「東京俘虜収容所」だった場所。食料が不足していたので俘虜たちに野菜をつくらせた。横浜BC級裁判では、「ごぼう」が「木の根っこ」だったとの証言から、所長は俘虜虐待の罪で死刑判決となったと、内海愛子さんが解説した。
「東京俘虜収容所(東京捕虜収容所)昭和16年(1942)9月25日開設。当初は品川区東品川3丁目の京浜運河建設事務所の建物を流用して「品川俘虜収容所」として9月12日に開設。9月25日に東京俘虜収容所本所と改称。昭和17年(1943)7月20日、現在の平和島に移転。当時の住所は大森区入新井町の東京第2埋立地。終戦時収容人員606人(米437、英115、蘭28、他26)、収容中の死者41人。戦後は、東條英機をはじめとするA級戦犯が、 スガモ・プリズンに移送されるまでの間この収容所に収容。横浜BC級裁判では、初代本所長鈴木薫二大佐、 2代目本所長酒葉要大佐ともに死刑判決。(両者ともに巣鴨で獄死)」
動画「大森収容所で生活するA級戦犯」をご覧ください。東条英機や岸の姿は確認できたが、笹川や児玉は分かりません。
動画「第1回 アマチュアモーターボートレース 平和島グランプリ」をご覧ください。笹川良一と長男笹川堯、日本テレビアナウンサー徳光和夫、漫才の横山やすしが出ている。
笹川良一は、スガモ・プリズン内でアメリカの競艇の写真を見てから興味を持ち、出獄してから競艇に手を染めたようだ。
なぜ??競艇(ボートレース)が生まれた!?
「それはやはり、第二次世界大戦で大打撃を受けた日本の経済回復ではないかと言われている。この目標を達成させるために競艇(ボートレース)を思いつき巣鴨プリズンから釈放後、関係各所に根回しをし関連法案を国会に提出します。1度は法案が通らなかった物の2度目で無事法案が通過され競艇(ボートレース)が開催されるようになった。」「登録番号1番に関しては競艇の産みの親である笹川良一である。」


「笹川良一」と「統一教会」にタブー韓国情報機関、世界反共連盟がリンクする謎のネットフーク
 昭和期のマスコミにはいくつかの夕ブーがあったが、その代表的なもののひとつが大物右翼・笹川良一と、彼と関係の深い新興宗教教団・統一教会、それにその別働隊だった右翼団体.国際勝共連合だった。 それらがタブー視されていたのは、ひとえにそのコワモテなイメ-ジによるものである。実際のところ、彼らをタブー視することはかなり長い期間続いていて、統一教会が左翼系以外の一般マスコミで平気で扱われるようになつたのは、平成4年にソウルで行なわれた合同結婚式に有名夕レントが出席し、同団体のコワモテな背景を知らないワイドショーが、メディアスクラムのパワ-でいつせいに統一教会ネタを報じるようになつてからだった。? また、笹川良一に関しては、平成6年の『文藝春秋』で、ジャーナリストの加賀孝英が「笹川一族の崩壊」と題したレポ-卜を発表したあたりから、徐々に封印が解かれたといっていいだろう。????日本の首領=笹川良一? その独特の威圧感でマスコミを黙らせ、「日本の首領」とまで評された笹川良一は、明治32年、大阪で生まれている。大正14年に故郷の大阪府豊川村(現・ 箕面市)村議会議員に当選して政治活動を始め、昭和6年に藤吉男らと右翼政党「国粋大衆党」を創設した。右翼大陸浪人や軍人らと交流し、自らも大陸などで活動する一方、戦時中は衆議院議員としても活躍している。 終戦後はA級戦犯容疑者として巣鴨プリズンに収監されるが、不起訴となって出所。戦後は競艇事業に尽力して昭和30年に全国モーターボート競走会連合会会長、昭和37年に日本船舶振興会(現・日本財団)会長に就任した。 スポンサー的立場となり、政財界に大きな影響力を行使した。とくに親交のあっ た政治家としては、岸信介、西尾末広、賀屋興宣、佐藤栄作、福田赳夫らがいる。 平成7年、死去。享年96歳。昭和の右翼人ではもっとも財力と権力を掴んだ人物といっていいだろう。
? 統一教会の庇誰者だった笹川 戦後の笹川良一を語るうえで、統一教会の庇護者という面を外すわけにはいか なぃ。 統一教会はもともと韓国人牧師・文鮮明が昭和29年に創始した新興宗教だが、昭和36年、韓国で朴正熙がクーデターによって政権を奪取した直後から、情報機関「韓国中央情報部」(KCIA)と協力関係を結び、その庇護を受けて勢力を急速に拡大した。日本でいえば「生長の家」と似たような立場の反共系宗教教団である。 ところで、戦後まもない頃からソ連共産党は、アジアでの共産主義勢力拡大を狙ってさまざまな工作活動をしていたが、 それに対抗すべく、アメリカでも反共団体やCIAが中心となって、アジアでの反共ネットワークの構築を画策していた。 そのトライアングルとなったのが日韓台の3力国で、昭和29年にはCIAの肝煎りで「アジア人民反共連盟」(APACL)が結成されていたが、昭和40年に日韓条約が締結されると、その院外団的勢力として、各国の民間右翼団体による ネットワークの結成が模索された。そこで中心的な役割を果たしたのが、韓国では統一教会、日本では笹川良一だった。 日本共産党中央委員会が出版した『韓国の謀略機関〜国際勝共連合=統一協会』によると、統一教会はKCIAと手を結んだ直後から、崔翅翼(日本名・西川勝)という幹部を日本に送り込み、いわゆる「原理運動」を開始した。このとき崔に協力したのが笹川だったが、そこにはおそらくKCIAと米CIA、あるいはアメリカの反共団体の協力要請があつたものと推測される。
??世界反共連盟と国際勝共連合? いずれにせよ笹川は、その後、昭和38年に統一教会の顧問となり、日本での布教活動を強力に支援した。統一教会は、笹川の影響力によって政財官界、とくに自民党と警察組織に浸透したといわれる。  一方、統一教会は各大学に「原理研究会」を組織して若者を勧誘した。布教初期の昭和37年に立正佼成会のある幹部が統一教会に合流し、2年後の昭和39年に会長に就任する。長年にわたって統一教会日本支部に君臨した久保木修巳.前会長である。そうしたなか、昭和41年になると、統一教会がホストを務めて「世界反共連盟(WACL)が韓国で結成された。 世界中から反共団体が参加したが、それらは事実上、CIAと米反共団体が組織していたネットワ-クだった。 ちなみに、昭和40年代半ばから昭和60年頃までの間、WACLの会長を務めたのが、バリバリの極右軍人として有名なジョン・シングローブ米退役少将である。シングローブは、世界中の反共ゲリラ支援、反共テロ、反共クーデターの背後で暗躍したといわれる伝説的人物である(シングローブ少将の反共コネクションも「陰謀論一の定番)。 ところで、KCIAの公認で、統一教会が韓国でその系列政治団体「国際勝共連合」を創設したのは、昭和43年1月のことだった。統一教会別働組織=国 際勝共連合はただちに日本での組織化を図るが、その後ろ盾となったのが、またもや笹川良一と、その盟友にして日本の韓国ロビ-のトップに立つ岸信介だった。 さらに笹川の主導で、日本でも、久保木修巳を会長とする国際勝共連合が活動を始める。笹川自身はその名誉会長となった。これは事実上、統一教会の日本支部と笹川の支配下にあった右翼勢力の合体だった。 国際勝共連合の実態は統一教会そのものだが、それと同時に、日本の右翼団体のなかでもっとも国際的なネットワークを持ち、かつもっとも活動的な団体のひとつとして、その地位を不動のものとした。
??自民党に浸透した統一教会 昭和53年に米下院国際関係委員会国際機構小委員会(フレ-ザー委員会)が、ワシントンの韓国ロビー問題に関する調査結果を発表したが、そのレポートのな かで、統一教会=国際勝共連合とKCIAの深い関係が暴露された。 それを受けて、日本でも日本共産党が独自に調査した統一教会=国際勝共連合 系政治家のリストを公表した。当時の福田赳夫首相をはじめ、現職閣僚から16人、そのほかの自民党議員155人、新自由クラブ議員4人、民社党議員5人という膨大な人数に及ぶリストだった。 もっともその大多数は、国際勝共連合とそれほど深い関係にあるわけではなかったようだ。よく指摘されているのは、「タダでよく働く秘書を派遣してもらった」とか、「いくばくかの献金をもらった」とかいったことだが、当時の議員の間ではむしろ日常的なことであり、皆が皆、深い考えのもとに交流していたわけではなかったものと思われる。? やはりこうした人脈との関係が深いのは、韓国ロビーに近いか、あるいは反共右翼色の強い人脈ということになる。政治家では岸信介、福田赳夫、椎名悦三郎、中曽根康弘といった面々であり、財界人あるいは右翼や学者といった民間人では、これらの政治家の周辺にいる面々ということになる。? いずれにせよ、統一教会の勢力が弱まるのは、昭和61年のレィキヤビク会談(レーガン=ゴルバチョフ会談)をきっかけに世界の冷戦構造が急速に崩れはじめ、共産主義VS反共右翼という対立軸が、もはや時代遅れになった頃からと言える。? そうした時代背景のもとで、教団のサバイバルという問題に直面した統一教会は、徐々に霊感商法をエスカレー卜させて世間の批判を呼び、さらに芸能人を広告塔にして墓穴を掘った。? 一方、平成3年には文鮮明が平壌を電撃訪問して金日成と会談し、世界を驚かせた。その後も北朝鮮との関係をますます強化し、むしろ金正日政権の延命に手を貸している。もしも笹川良一が生きていたら、それを見て何と言ぅだろうか。
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富士国際旅行社(株)催行「占領下の横浜フィールドワーク(仮題)」
2022年11月10日(日)
講師:春日恒男(「防衛省市ヶ谷記念館を考える会」共同代表)
主なコース「A級戦犯七人が荼毘に付された久保山斎場」「吉田茂元首相の墓がある久保山墓地」「東京捕虜収容所等で死亡した英連邦軍兵士の墓」「BC級戦犯横浜裁判があった横浜地方裁判所」「マッカーサー元帥が宿泊したグランドホテル横浜」「米軍第八軍司令部があった横浜税関」「米軍相模工廠からベトナムへ運ぶ戦車をストップした村雨橋」「米軍ノースピア」
(続く)

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