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朝鮮戦争にまつわる日本国有鉄道「レッドボール・エクスプレス」 

2022年06月25日 外部ブログ記事
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友人の川口重雄(前・田園調布学園高・中社会科教諭)さんからのメールを転載します。「明治神宮外苑再開発をめぐる話」はもう一つ別に投稿します。
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各位               6月24日〔本日第1信〕お暑うございます。歴史的な日付が続きます。明日6月25日は朝鮮戦争開戦(1950年6月25日)から77年の日です。今日はその朝鮮戦争にまつわる日本国有鉄道「レッドボール・エクスプレス」、恥ずかしながらその実態について詳しくは知りませんでした。6月15日に敗訴となった群馬県高崎市の群馬の森朝鮮人追悼碑をめぐる冊子刊行の件、陸上自衛隊による沖縄摩文仁の黎明の塔、参拝なしか。明治神宮外苑再開発をめぐる話、以上4点の、友人から届いた情報をお送りいたします。それでは。川口重雄拝
-----Original Message-----朝鮮戦争支えた国鉄「レッドボール・エクスプレス」とは 日本最大の軍事輸送は“戦後”に(乗りものニュース)220621https://trafficnews.jp/post/1195811950年6月25日、北朝鮮軍の奇襲で朝鮮戦争がはじまりました。米韓軍を中心とした国連軍が北朝鮮軍と戦うため、日々消費される膨大な物量を支えたのは、兵站基地となった日本の鉄道輸送網でした。占領下の日本 混乱の中で運行された進駐軍列車 1950年に勃発した朝鮮戦争は、いまなお朝鮮半島の社会、そして世界情勢に大きな影響を与え続ける出来事となりましたが、当時の日本はこの戦争の特需によって戦後復興の第一歩を踏み出すことになりました。このとき、太平洋戦争で大きな被害を受けた国鉄が、朝鮮半島への軍需物資の輸送に大きな役割を果たしました。現在の横浜・日本郵船ビル(日本郵船歴史博物館)。占領下、ここにアメリカ第3鉄道輸送司令部(第8010鉄道輸送司令部)が置かれた(樋口隆晴撮影)。 太平洋戦争が終わったときの国有鉄道(運輸省鉄道総局の国有鉄道)は、線路被害1600km、駅舎焼失198か所、各種の被害を受けた車両は、機関車891両、貨車9577両、客車2228両、電車563両、職員の死者1250名、負傷者3153名という大きな被害を出していました。 しかし、それは主として都市空襲に付随する被害で、基本的には主要駅や操車場などがピンポイントで狙われることはなかったのです。事実、8月15日に玉音放送を受けて多くの人々が呆然自失となるなかでも、各列車は定時運行を保っていました。 こうした状況にあった鉄道は、進駐してきた連合軍(ほとんどがアメリカ軍、イギリス連邦軍が少数)の接収するところとなり、日本各地に駐屯する連合軍の兵站を支える貴重な補給ルートとなりました。 アメリカ軍は、横浜の日本郵船ビル(現在の日本郵船歴史博物館)に入った第3鉄道輸送司令部(1950〈昭和25〉年1月より第8010鉄道輸送司令部)が、札幌、仙台、東京、京都、北九州にDTO(鉄道輸送地区司令部)を置き、さらにその下に主要駅226か所にRTO(鉄道輸送事務所)を配置して鉄道をコントロールしていました。一方、イギリス連邦軍は、岡山、呉、下関に輸送統制司令部を置いていました。 この体制で、連合軍は多くの鉄道車両、天皇・皇族の乗る御料車も含めて接収し、連合軍特別列車を走らせていたのです。その数は1945(昭和20)年度で個人輸送が延べ545万人に上りました。 当時は、復員や海外からの引き揚げ民間人のために多くの臨時列車を出す必要があった一方、地域の鉄道は郊外へ買い出しに向かう人などで、列車は常に過剰すぎるほどの客を乗せていました。窓から出入りする人や、連結器の上などに乗る人もいました。 もっとも、占領行政が落ち着いてくると、連合軍向けの列車の数も少なくなります。その運行本数は少なくとも、1950(昭和25)年の朝鮮戦争勃発までは漸減 傾向にありました。日本が兵站基地になった朝鮮戦争 しかし、朝鮮戦争が始まると状況は一変します。まずは日本国内のアメリカ軍将兵と備蓄された軍需物資を朝鮮半島に送り、さらに日本はアメリカ本国などからの中継拠点となりました。占領下の国鉄は、進駐軍のためにフル稼働することを迫られました。『鉄道終戦処理史』(日本国有鉄道)によると、北朝鮮軍が侵攻を開始した翌日には、宮城県の陸前山王駅から横浜の瑞穂(埠頭)駅に弾火薬を積んだ貨車14両からなる臨時列車を走らせています。さらに翌々日の27日、第8010鉄道輸送司令部は、朝鮮半島から引き揚げてくる民間人のために汐留貨物駅の3番ホームを開けることを、29日には関門トンネルを含めた全路線で火薬類輸送の制限解除を国鉄(昭和24年に発足した公共事業体)に命じました。 朝鮮戦争勃発から2週間で臨時軍用列車の本数は245本、客車7324両、貨車5208両を要したと記録にはあります。これは太平洋戦争中にもなかったほどの本数で、鉄道省や運輸省の下部組織だった頃も含め、国鉄軍事輸送の最高記録だったそうです。釜山に陸揚げされるM4シャーマン戦車(アメリカ陸軍)。 こうした輸送の結果、アメリカ本国からの増援分もふくめ、7月15日には韓国には概ね6個師団ほどのアメリカ軍兵力が展開しました。しかし勢いに乗る北朝鮮軍の攻勢は押しとどめられず、国連軍(米韓軍主体)は、朝鮮半島南端の釜山を中心にした地域へ押し込められます。もうこれ以上の退却は韓国を失うことになります。8月、「釜山橋頭堡の戦い」で知られる、釜山円陣の戦闘が始まりました。 このような状況で、占領下の日本は、朝鮮半島の対するもっとも近い兵站基地としての機能を負わされたのです。「レッドボール・エクスプレス」出発 国鉄は日本国内各所から朝鮮半島への玄関口となる北九州各港湾へ、さらには爆撃へむかう在日アメリカ空軍の横田、立川、岐阜、芦屋、板付の各飛行工場へ武器・弾薬・軍需物資を送り届けましたが、GHQはさらに第8010鉄道司令部を通じて、急行軍用貨物列車の運行を命じました。 当時、アメリカ軍の輸送の中心は、京浜地区でした。とくに横浜駅から、赤レンガパークがある新港埠頭をへて大桟橋の間、現在MM21地区として知られる1980年代後半に再開発された地域は、港湾と鉄道輸送の重要な結節点でした。ここには多数の線路が敷かれ、貨物駅も、瑞穂(現在も埠頭の大部分はアメリカ軍が使用)、東高島、高島(車両基地となる高島機関区と操車場も併設)、表高島、東横浜、横浜港(旅客駅でもある)と狭い地域に蝟集していました。 このうち、桜木町駅の北に隣接する東横浜駅は、第8010鉄道司令部や第8軍司令部(横浜税関ビル)からほど近いこともあり、なかば在日アメリカ軍専用駅となっていました。横浜エアキャビンから桜木町駅方面を望む。この奥の一帯が東横浜駅だった。右は同駅から横浜港駅に通じていた貨物線を歩道化した「汽車道」(乗りものニュース編集部撮影)。 そして、横浜港、そして京浜工業地帯にある各埠頭駅に陸揚げされた軍需物資のうち、緊急性が高い物を、この東横浜駅に集め、九州の佐世保までノンストップで運行、そこから専用の貨物船で釜山まで運ぶという陸海一貫の急行貨物便が設定されたのでした。それが「レッドボール・エクスプレス」、国鉄側は「ロケット急行便」と呼ぶ列車でした。 レッドボール・エクスプレスの愛称は、おそらく第2次世界大戦の後半、フランスで行われたパットン第3軍への専用道路を使った自動車輸輸送を念頭においたものでしょうが、もともとはアメリカの大手配送会社の名前でもありました。急行より俊足!? 貨物列車レッドボール・エクスプレス レッドボール・エクスプレスに使用された貨車は戦前に「宅扱い便(駅から配送先まで一貫して届ける便)」用の急行貨車として製造されたワキ1形、または1949(昭和24)年から製造が開始されたワキ1000形でした。前者は25トン積みで最高速度(牽引速度)85km/h、後者は30トン積みで時速75km/h。これに貨車と車掌車を兼ねるワムフ1(15トン積み)かワムフ100(15トン積み)を付けて列車を組みます。 史料から復元するとワキ1形で編成された場合は14両+ワムフで365トン、ワキ1000形で同じく14両435トンでした。当時の貨物列車はD51蒸気機関車を使用した場合800から900トン程度の貨物を牽引できましたから、この数値からも速度を重視していたことがわかります。おそらく積荷は緊急性の高い、小銃、機関銃、迫撃砲弾薬に医療品、携帯口糧、ドラム缶に入れた車両用燃料が主体だったと思われます。ワキ1形とワキ1000形(イラスト:樋口隆晴)。 さて、レッドボール・エクスプレスは、23時30分に東横浜駅を出発、いったん鶴見まで北上し、そこから東海道本線〜山陽本線〜鹿児島本線〜長崎本線〜佐世保線を経由して翌々日の5時42分に佐世保へ到着。その後は12時30分に佐世保出航、翌日4時に釜山に到着というダイヤが組まれていました。 レッドボール・エクスプレスの所要時間は佐世保まで28時間12分です。この頃の時刻表を調べると、1952(昭和27)年から限定的に日本人が利用できるようになった東京発佐世保行きの急行連合軍特別列車が28時間22分、1956(昭和31)年11月から走るようになった東京発佐世保行きの急行「西海」が24時間37分で佐世保に到着していたので、レッドボール・エクスプレスが貨物列車としていかに速かったかがわかります。この列車が、貨物の多い日には3本出発することもあり、また出発駅も浜川崎や新興(横浜市神奈川区、廃止)からの便がありました。 その後、アメリカ軍の仁川(インチョン)上陸で戦況が好転すると、レッドボール・エクスプレスは隔日出発となりましたが、この列車こそが釜山円陣を支えた陰の功労者であり、また“巨大兵站基地”日本の血管となった国鉄の象徴ともいえるでしょう。そしてこの朝鮮戦争の特需を契機として、日本は戦後復興への道を歩み始めるのです。【了】
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群馬の森の朝鮮人追悼碑の存続を求める訴訟については、最高裁が2022年6月15日に上告を棄却し、追悼碑の撤去を求めている群馬県側の勝訴となりました。守る会は6月20日に予定していた集会を抗議集会とし、追悼碑存続の意思表示を示しました。?集会には100人が参加し、抗議文を採択し、最高裁に提出しました。?https://www.jomo-news.co.jp/articles/-/132946?https://chosonsinbo.com/jp/2022/06/21-96/守る会は冊子「群馬の森・朝鮮人追悼碑存続のために」を発行しました。守る会会員の思い、高裁判決の問題点と上告理由書、群馬県の朝鮮人強制労働などで構成されています。今後も、追悼碑の存続を求める活動が続きます。ぜひ購入して、ご支援ください。入手は FAX 027 236 0663まで 追悼碑を守る会(群馬県社会文化会館内)竹内まで、メールの注文でも可です。5部以上の注文は送料無料。以下のアドレスです。注文冊子数、送り先を書いてください。paco.yat@poem.ocn.ne.jp
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陸自沖縄トップ、例年の「参拝」中止か 沖縄戦の司令官弔う慰霊塔 「私的」に疑義でる中(琉球新報)220623https://ryukyushimpo.jp/news/entry-1537784.html#:~:text=%E6%B2%96%E7%B8%84例年夜明け前に実施されてきた陸自沖縄トップの「参拝」が今年は確認されていない、沖縄戦の司令官らを弔う黎明之塔=23日午前5時10分すぎ、糸満市摩文仁 沖縄戦の戦没者を追悼する沖縄の「慰霊の日」の23日、沖縄に駐留する陸上自衛隊第15旅団の旅団長らが例年続けてきた糸満市の「黎明之塔」への「参拝」が今年は午前7時現在、実施されていない。「黎明之塔」は、沖縄戦当時の日本軍第32軍の牛島満司令官らを弔う慰霊塔。自衛隊トップの「参拝」の監視を続けている県平和委員会の大久保康裕事務局長(59)は、今年は「参拝」が行われていないことに「自衛隊が『私的』と説明してきた参拝が、報道で『公的なもの』ということが明らかになり、来ることができなかったのではないか」と推測した。 「黎明之塔」は糸満市摩文仁の沖縄平和祈念公園内にあり、32軍の牛島司令官と長勇参謀長の2人を弔う慰霊塔。沖縄戦では牛島司令官が最後まで闘い続けるよう命令を発した上で自決し、その後も大勢の住民が戦闘に巻き込まれて命を落とした。2004年から始まった現地自衛隊トップの制服姿での「参拝」は毎年同日午前5時前ごろに実施されてきた。 その沖縄戦を指揮した司令官の慰霊塔を、現在の実力組織である自衛隊の現地トップが制服で「参拝」することは、当時の日本軍の行為を肯定的に評価し賛美するものだとの批判も絶えない。陸自は従来、現地トップの「参拝」は「私的」なものとの見解を繰り返してきた。 しかし昨年の旅団長の「参拝」を巡って、従来「私的」なものと位置づけてきた防衛省陸上幕僚監部が、部内で旅団長の「参拝」に関する報告文書を作成していたことが今年6月に判明。「私的」としている行為を組織として把握していたことになり、識者からは「『私的』の範囲を逸脱している」と、従来見解と矛盾しているとの指摘が上がっていた。 この日、黎明之塔には「参拝」に反対する市民や日の丸を掲げた団体ら約50人が集まった。現場にいた大久保さんは「自衛隊の参拝は多くの住民が犠牲になった沖縄戦の実像をゆがめるものだ。沖縄戦に対する県民の思いが、参拝をやめさせたと思う」と語った。 今回、「参拝」が実施されなければ、2004年以降で初めての中止となる。
自衛隊の集団参拝、実施されず 日本軍の司令官らをまつる「黎明之塔」 18年連続で未明に訪問(沖縄タイムス)220623https://www.okinawatimes.co.jp/articles/-/979686#:~:text=%E6%B2%96%E7%B8%84 慰霊の日の6月23日、沖縄の陸上自衛隊が毎年実施してきた黎明之塔への集団参拝は今年、恒例の未明の時間帯には確認されなかった。実施されないのは19年ぶり。糸満市摩文仁の丘の上に立つ黎明之塔=23日午前6時半すぎ 黎明之塔は沖縄戦最後の激戦地となった糸満市摩文仁にあり、日本軍の牛島満司令官らをまつる。沖縄の陸自は1976年に1度、トップを先頭に集団参拝して中断。牛島司令官が午前4時半ごろ自決したとされるのを念頭に、2004年から昨年まで18年連続で未明の時刻に実施していた。 毎年抗議してきた沖縄県平和委員会の大久保康裕事務局長は「自衛隊増強に県民の警戒感が高まる中、日本軍との結び付きを示すことを避けた可能性がある。集団参拝を止められて良かった。軍隊は住民を守らない、という沖縄戦の教訓を守ることにつながる」と語った。
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「朝鮮戦争支えた国鉄「レッドボール・エクスプレス」とは 日本最大の軍事輸送は“戦後”に」の文中に出てくる横浜瑞穂埠頭(撮影:管理人)







(続く)
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