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父は玉音放送が終わったら「戦争は終わったよ、女はアメリカ兵が乱暴するから気を付けな」と言った 

2021年08月15日 外部ブログ記事
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凡人の記憶の引き出しは小さいので、幼少期の記憶に残っていることは余りありませんが、玉音放送後の父の言葉は記憶にあります。
父と母は、東京市淀橋区十二社(じゅうにそう・現新宿区西新宿4丁目)のアパートが新婚生活でした。管理人は1937年3月に四谷区新宿2丁目の新宿病院で生まれましたが、父は、9月に充員召集のため金沢第九師団輜重兵第9連隊に応召しましたので、母と管理人は蒲田区御園町の実家で生活していました。二年の兵役復員後は杉並区井荻1丁目(現・善福寺1丁目)の木造2階建ての家に住みました。
父と母(母のお腹が膨らんでいます)

戦地に送った写真(蒲田区御園町の実家)

1944年11月中島飛行機荻窪工場へ米軍戦略爆撃機B29の投下した500`爆弾が近くの畑に落ち、機銃掃射の弾がガラス窓を破って階段の踊り場に落ちました。父は「長男大事」と元八王子村の知り合いに縁故疎開をさせました。しかし、8月3日の米軍戦闘機P51マスタングによるロケット弾で、元八王子国民学校は校舎が破壊されたので自宅に戻っていました。
8月15日正午からの玉音放送は、茶の間の茶箪笥の上に置かれたラジオの前で、父(39歳)、母(31歳)、二人の妹(8歳・6歳)、女中(20歳)管理人(8歳)の家族全員が、ちゃぶ台に座って聞きました。放送の内容は何を言っているのかサッパリ分かりませんでしたが、父は「戦争は終わったよ、女はアメリカ兵が乱暴するから気を付けな」と母と女中に向かって言ったことは、何故か記憶に残っています。そして、父の言葉は心の奥に深く沈んだままでした。
石川県に照会した「軍歴」を見ますと、1937年10月1日大阪港出帆、5日上海港上陸。「第二次上海事変」の上海・蘇州・南京・徐州の戦闘に参加し、1939年6月8日復員下令、6月20日宇品港帰着となっています。日本軍の中国人南京大虐殺や女性への暴行、略奪に関わったのか、見ていただけだったのか「軍歴」だけでは分かりませんが、その時の体験から思わず発した言葉だったのだろうと、現在は思っています。
「南京謝罪の旅」で70歳と80歳の時に訪中しましたが、6年後の90歳を目標にしています。(Blog記事「訪中レポートI80年目の謝罪「父の重罪に許しを乞うため此処に座す」をご参照ください。)
父が、戦友と大阪港から出帆する大阪の宿舎での記念写真。(前列で子どもを抱いているのが父)

父は前列左側

(了)
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