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高輪築堤150年の歴史を破壊 〜JR東日本は鉄道屋から不動産屋に〜 

2021年07月17日 外部ブログ記事
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国鉄貨物汐留駅は、管理人とっては思い出深い場所です。銀座東二丁目にあった田中茂商事(株)に倉庫係として入社しましたので、日立金属(株)の北九州市戸畑工場から発送される度に「マレブル鋳鉄製のコンベヤーチェーン」を汐留駅に引き取りに行きました。
倉庫係時代は、ダイハツ・ミゼット三輪車で集荷と配達をしました。

この汐留駅跡地のA・B・C街区を1997年(平成9年)電通、三井不動産、日本テレビ等に売却しましたが、東日本鉄道財団は「旧新橋駅 歴史資料展示室」を設立しました。第1回企画展示は「日本の鉄道開業」でした。
?「新橋横浜間の鉄道建設」?1869年12月12日(太陰暦明治2年11月10日、以下同じ)、成立したばかりの明治政府は、東京京都間の鉄道建設を決定しました。翌年の4月25日(3月25日)から新橋横浜間の鉄道建設が始まりました。しかし、鉄道が最初から人々に歓迎されていたわけではありません。明治の東京の新名所として錦絵に数多く描かれた高輪付近の海中の築堤は、薩摩藩や兵部省(軍部)が測量や土地の引渡しを拒否したため、苦肉の策として考え出されたものでした。(傍線は管理人)
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「日本イコモス国内委員会要望書」から抜粋 1・文化遺産としての世界的な意義と価値
 わが国最初の鉄道である新橋〜横浜間は、世界史的にみれば東アジアで最初の鉄道でもあり、植民地鉄道とはちがうわが国が国家プロジェクトとしてつくった自律的な鉄道であることは、すでに記述しました。1872年(明治5)の開通以来、基本的な鉄道ルートは変わりなく、沿線や周辺には開業当初からの鉄道遺構や関連施設が数多く残り、最近まで今日の鉄道を地下で支えてきました。終点の旧新橋停車場跡は史跡に指定され、開業当時の駅舎や線路等の一部が復元されていますが、さらに新橋〜横浜間の鉄道遺構の連続的な保存と活用ができれば極めて大きな意義があります。かつては「高輪築堤」以外に、神奈川県には「横浜築堤」が存在し、築堤土に利用された 神奈川の切り通しは鉄道路線として現存し、また工事監督者であった高島嘉右衛門が指揮した高島台など、横浜にも関連施設や遺構、遺物を確認することができます。路線に残る現役の煉瓦橋台も、興味引かれる構造物です。今後調査を深めれば、関連施設や遺構は、まだまだ発見されることが予想されます。現在、鉄道遺産としてユネスコの世界文化遺産に登録されている数例の鉄道遺産は地方の山岳鉄道に限られています。それらと比較すると「高輪築堤」は新橋〜横浜間を結ぶ市街地の鉄道として、極めて稀有な遺構であり、日本の近代化の特性を顕著に物語っていることから、世界文化遺産として評価される可能性も秘めています。そのためには、「高輪築堤」の未発掘部分を含む全面的な保存と、広い範囲での史跡指定をおこなうことが重要と考えます。
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「高輪築堤」に関するJR東日本の都市計画関連の情報開示請求を確認するために東京都首都整備局に行ってきましたが、7月3日に 開示文書が到達しました。(カラー365枚、白黒342枚合計707枚で手数料は10,490円)
情報開示請求したのは「都市再生特別地区(品川駅北周辺地区)開発ビル」1街区 ・2街区・3街区・4街区(北棟及南棟)に関する建築情報ですが、建築平面図と基礎図面(断面図を含む)は「防犯上」の事由で不開示となりました。
この文書の中で、一枚だけ重要な記述があったことを見つけました。それは「国家戦略特別区域法に基づく特例の活用に係る調整について(依頼)」で「品川駅周辺地区 再開発等促進区を定める地区計画(区域1〜4)企画提案書」の「1-73」でした。



管理人が赤枠にした部分の文字起こし
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?2)品川駅・田町駅周辺まちづくりガイドライン2 014における都市構造上の位置付け
?・北周辺地区及び駅街区地区は、「品川駅・田町駅周辺まちづくりガイドライン2 014」において優先整備地区に位置付けられている。?・そのほか、同ガイドラインにおいて、品川駅西口地区、芝浦水再生センター地区が優先整備地区に位置付けられている。?・各優先整備地区の特徴は以下の通り。
品川駅北周辺地区
品川駅北周辺地区は、我が国の主要都市を結ぶ鉄道輸送を支えてきた車両基地の跡地を中心々した地区であり、近年、車両基地の再編・合理化などにより、大規模な土地利用転換が見込まれている。この地区は、かつて海岸線だった国道15号沿いに南北にわたって位置し、明治時代の鉄道の開業を皮切りに海面の埋立てが進んだところであり、鉄道東側のウオーターフロントと鉄道西側の緑や歴史観豊かな市街地の間に位置している。
品川駅街区地区
?品川駅は、1 8 7 2年(明治5年)に開業した日本一古い鉄道駅の一つであり、開業当初、現在の八ツ山橋付近に設置されたが、鉄道の整備に伴い移転し、19 01年(明治3 4年)にほぼ現在の位置に設置された。1 9 3 3年(昭和8年) に京急が現在の位置に駅を開業、1 9 6 8年(昭和4 3年)には都営浅草線の相互直通運転が開始された。近年では、1 9 9 8年(平成10年)に羽田空港までの直通運転を開始したほか、2 0 0 3年(平成15年)に東海道新幹線の停車駅が開業するなど、品川駅の利便性は向上しつつある。ただし、利用客の乗換利便性の観点からみると、分かりやすさ、移動のしやすさという点では改善の余地があり、今後は、国内外を結ぶ交通結節点として、駅機能の強化が求められる。(傍線は管理人)
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「明治時代の鉄道の開業を皮切りに海面の埋立てが進んだところであり」、「品川駅は、1 8 7 2年(明治5年)に開業した日本一古い鉄道駅の一つであり、開業当初、現在の八ツ山橋付近に設置された」と、「高輪築堤」、「品川駅と八ツ山橋」の歴史を認識している重要な証左であります。明治5年(1872年)の開業時の複線から線路が3線に、大正8年(1919年)3月1日東海道本線田町〜品川間6線開通。その後は東京湾を埋め立てて品川ヤードを造成してきた歴史は、国鉄南管理局刊「汐留・品川・櫻木町驛百年史」には、記述と「品川ヤード坂阜」の写真にも、昭和48年(1973年)時点では明確にされています。「高輪築堤」が壊されたという記録は絶対にありません。
1987年(昭和62年)国鉄は「分割民営化」が実施されてしまいます。しかし、一部上場の株式会社となっても、鉄道の歴史と技術は受け継がれている筈であり、東日本旅客鉄道株式会社(JR東日本)の重要な使命でもあります。「高輪築堤」の存在を充分に知り得ながら、国、東京都、港区と一体になって開発をすすめてきたことは「鉄道屋から不動産屋」になったとの謗りを免れないと考えています。


最後に、「汐留・品川・櫻木町驛百年史」発刊責任者 国鉄東京南鉄道管理局長田ロ通夫氏の「序」をアップしておきます。
「おしまいに、この駅史の中で、相当の部分が、駅に直接関係のない社会事情や風俗、当時の地理、自然等の描写にさかれておりますが、当時は、良き時代と申しますか、我々日本人の先輩は「自然」を大切にしながら、その「加工」を上手にやってきた情景が想像できて楽しい思いです。自然を破壊する人間エゴイズムではなく、自然と協調しながら、街づくり、鉄道づくりをやってきたように思えてなりません。我々も是非そうありたいものです。こんな気持で、この小冊子を読んでいくと非常に心豊かになる思いですが、皆さんも、夫々いろいろな感懐をこめて、お読みになってみて下さい。」
(了)?

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