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平成の虚無僧一路の日記

「六段」の作曲者は「八橋検校」ではない? 

2021年07月12日 外部ブログ記事
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日本音楽(日本音楽社発行)通号21(1949年10月)P.10〜11に田辺尚雄氏が『日本歴史講話 ―六段曲は誰の作か』という論文を発表している。ここで田辺氏は、「江戸時代には、『六段が八橋検校の作』と書き記したものは存在しない。それは明治以降」と断定している。また、琉球には、『一段(瀧落菅攪)』、『二段(地菅攪)』、『三段(江戸菅攪)』、『四段(拍子菅攪)』、『五段(佐武也菅攪)』、そして『六段(六段菅攪)』、『七段(七段菅攪)』の7つの器楽曲がある。そのうち、『六段菅攪(すががき)』は、本土の『六段』と寸分の差がない。拍子数が同じだが、調子は平調子ではなく、筑紫流と同じ雅楽の呂旋法となっているから、曲調は全然違って聞こえる。
実は私は、この「琉球の六段」を聞いている。まったく曲調がちがうので、奇異に感じた。
田辺氏は「古典的な手法が用いられており、左手法も古風で単純。従って『六段』は、琉球の方が素で、本土の方が後であると言える」と結論づけている。
これに私は若干修正を唱えたい。
八橋はもともとは、琵琶法師であり、三味線弾きだった。そして筑紫善導寺の僧法水から筑紫流筝曲も学んだ。その筑紫流箏曲の『六段』は雅楽の呂旋律だった。それが沖縄にも伝播して「琉球の六段」として沖縄に残った。
それを「平調子」に改めたのが「八橋検校」ということになろう。
?
田辺氏は「六段を八橋の作曲とする史料は江戸時代にはない」と断定しているが、おっとどっこい、1782年刊行の『筝曲大意抄』に「六段之調子、八段之調子、乱輪舌」他 組歌の目録を挙げ、「右 八橋検校作」と明記されている。田辺氏がこの『筝曲大意抄』を知らなかったとは解せない。

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